善悪
「鏡介、難しい顔をしているね」
俺が図書室で教科書とにらめっこしていると、夏目が声をかけてきた。
「夏目、課題終わった?」
「『走れメロス』を紹介する文を書くやつかな。終わったよ」
「さすがですね」
無類の国語好きの夏目からしたら、赤子の手をひねるようなものか。夏目漱石が名前の由来なだけある。
「行き詰まってるの?」
「だって、セリヌンティウス可哀想だろ。いや、話として友情の素晴らしさはわかるよ。でもさ…」
セリヌンティウスは悪いことをしていないのに、人質にされているし。なんで殴られないといけないんだよ。
「まあ、そうだよね」
夏目は、おかしそうに、少し声を出して笑った。
「善悪というのは、その場その場で変わる。現に、文学の主人公たちが、いつでも正しいとは言えない。周りに迷惑をかける主人公も、珍しくはないしね。最近は、普通な主人公と少し変わった相棒系が流行っているけれども」
早口でまくしたてられた。いつものことだが。
「お前がそれ言っていいのか?」
夏目は、俺の隣の席に座る。そして、俺の教科書の作者のページを開いた。 太宰治の文字を、指でなぞる。
「『走れメロス』の作者。太宰治は、飲み屋での代金が払えないからと、友人を人質にしたんだ。それでどうしたと思う?」
「払いに戻った、とか」
夏目は、口の端をにっと上げた。
「そのまま、まんまと帰ったんだよ」
信じられない。開いた口が塞がらないとは、こういう時に使うのか。
「そんな人が、走れメロスを書いてるのか…」
「熱海事件と呼ばれていてね。『走れメロス』の元となったという説もあるんだ」
人差し指を振りながら、得意げに語った。
「文豪には、おかしなエピソードも多々ある。四メートルの手紙とかね。どんなに立派な文を書いて、詩を残して、教科書に載っても、残念なところもある」
一息置いて、夏目はすっと目を合わせた。
「でも、それが人間らしさなんじゃないかな」
その目には、不思議な輝きがあった。
「その時正しいか、間違ってるか。善悪なんて、誰にも決められない。強いと言えば、後の人間が客観視した時に、どう思うかだ」
「そうかもな」
歴史の教科書を思い浮かべる。その時の善は、今では悪。なんて、よくある話だ。
「善悪で言うなら、舞姫を読んでみるのはどうかな」
「あれ難しいだろ」
「文体はね。でも、おもしろいから」
また夏目の解説付きで読むことになりそうだ。
「ふふ。俺たちのこの会話も、どこかで聞いてくれた誰かが、善悪を判断してくれるかもしれない」
夏目は、窓の外のどこか遠くを見つめた。
4/26/2026, 2:05:04 PM