天津

Open App

胸が高鳴る

彼の手が肩に触れたとき、心臓が跳ね上がるように鳴った。人肌を感じる事自体が遠い過去の記憶だった。家族は皆、私を見ると二言三言話して離れていったし、使用人も腫れ物のように私を扱った。それで当然だと受け入れてきたが、触れられてみると、これがあるべき状態だというような懐かしさがあって、戸惑いを覚えた。指の温もりがもたらす安堵と胸の早鐘で、目が回りそうだった。
そして、永遠のように長い誓いのキス。頭がちかちかしそうな万雷の拍手。
身を離し、拍手の止んでいくのを聴きながら、私はおそるおそる彼の目を覗き込む。彼は健やかな笑顔を浮かべていて、私は息をついて笑みを浮かべた。何故かまた、拍手が沸き起こる。その中に私の家族はいない。

カーテンを閉め切った真っ暗な部屋の中、ただ一つのランプに照らされたベッドの上で、私と彼は相対した。隣室にも、ドアの前にも、そよ風ほどの気配もない。今夜は特別な夜だから、人払いをさせてあった。
胸はずっと高鳴っていた。それこそ彼に聞こえるほどに。しかし、気にすることはない。それは自然なことだから。
彼は私を強く抱き締めた。かつて感じたことのない安堵の波に、私は哀しくなった。彼は続けて私の唇を貪り、まるで皿まで味わい尽くすように歯の裏側まで貪った。それから彼は私の中へ侵入し、息を荒らげて身体を震わし、やがて果てた。
彼は動かなくなった。
のしかかる男の身体を横へ仰向けに転がし、私はベッドから下りた。
カーテンを開ける。いやに明るい月夜だった。振り返ると、青い顔をした男の身体が、汗や体液できらきらと光っていた。私の身体はまだ熱かった。火照った頬を伝い、軌跡を描いて汗が落ちていった。私は窓を細く開けた。風がひんやりと髪を揺らした。私は胸に手を当て、激しかった拍動が次第にひいていくのを感じた。
男の頭横に座り込み、首元に手を当てる。それから閉じた瞼を指で開いて月明かりに照らし、唇に耳を近づける。儀式はあっけなく終わった。
私はベッドに座り込み、指に自分の体液を掬った。
これが猛毒だなんて。
まさにその毒に侵された者がすぐ横に転がっていても、自分の血も汗も涙もすべての体液が猛毒でできているとは、なかなか実感が持てなかった。
毒を含んだ体液をシーツで拭い、服を着る。
私は窓際に戻り、外を見下ろした。予定では、屋敷を囲う茂みの中に、逃亡のための人員が待機している筈だった。窓から降りて受け止めてもらい、それから森の闇に紛れて行方をくらます手筈だった。しかし、どこにも誰も見当たらない。合図の光どころか影一つ見当たらない。
よく考えればそうだ、これは何度も使える暗殺手段ではない。私は使い捨てだったのだ。
私はベッドの男を見遣って、胸が苦しくなった。触れられた場所をおもむろになぞる私の手はひどく冷たかった。

2023/03/20

3/20/2023, 9:27:35 AM