何も決められないのにしたいことはあるのに何かを捨てることが必要とはわかっているのにそれは何を捨てていくべきかということかそれは犠牲になるということなのか、わからない。
大人になればなるほどにわからないことだらけで10代のころの方が色々なことをわかっていたと思う。
わからない、その渦中で生きはじめる大人たちが多分本当はわかっているということを、わからない、として何かしらをまわしている。
わからないままのほうが、私たちはきっとよくて、たぶん曖昧だからこそのしあわせを享受できている。わかることが正解でないということだけはわかっている。
そんなことよりも、わたしは何かを捨てなければいけないし、人生は捨てることだとか、捨てられない人たちを莫迦にしたりとか、とても恥ずかしい心を持ったまま今日を迎えてしまった。本当は、捨てられないといういじらしい人間らしさについて、認めたかったし、自分の中にもあるということを受け入れてあげたかったんだと思う。
時間とかお金とか家族とか恋人とか、すべてなんてきっと無理だろうし、全部を手に入れている人が見えるのは見せたくない部分からトリミングされているものを私たちは見ていて、それで、何も持っていないような気がして、何かを捨てることに敗北感をおぼえているのかもしれない。
トリックアートみたいなSNSが世界になってから、自分が苦しくなったと思うし、そういう人たちを軽蔑する人たちのふりもしなければいけないから忙しいんだと思う。
どうでもいい、に行き着くことのむずかしいこと。
わからなくて、むずかしくて、とりとめもなくて、結局目の前のことについての時間を、こうやって広大な空間に放り投げて、同じだけ捨てている。
愚かだと言わないでおきたい。
人間らしいと言っておきたい。
12/17/2024, 10:42:58 AM