どうして:
最近になって、ふと考えたことがある。
人生で最初に「しにたい」と思ったのはいつだろうって。
それがいつであっても、その人にとって大きな感情の動きがあったことは間違いないだろう。そしてそれには優劣だとか大小だとかをつけるべきではないのに、どうしてもそうしたい人が一定数いるらしい。
「しにたい」とこぼしたのが中高生なら、自分の親なら、男なら、女なら、小さい子どもなら、老人なら。
なあ、いま脳内で勝手に背景を補完しなかったかい?「老人が言うならきっと闘病に疲れての発言だろう」とか「中高生が言うなら多感な時期のそれだろう」とか、そういうのがほぼ自動的に起こらなかったかい?
いわくこれは脳の仕組みだそうだから、それを咎めるようなことはないよ。だけどここでそれに気がついたなら、意識してみてほしい。誰がどんな理由でその発言に至ったとしても、それなりの理由があるんだろうって思うことを。
僕の大事な人は、弱音ひとつ吐かず、気丈な様子のまま虹の向こうに行ってしまったよ。SOSを出してくれてるってことをもっと大事にしたほうがいい。
言葉が言葉だし、タイミングや頻度によってはうんざりするかもしれない。それでも何も言わないままいなくなってしまわれるよりずっと良いんだ。
こんなことをどれだけ熱弁したって、ヒトは実際にその痛みを経験するまで学習できない生き物だけど。
死にたがりは煙たがられるのに、どうして死にたがるような世の中になっちまうんだろうな。アンタが生きててホントに良かったよ。ありがとう。
1/14/2026, 10:19:34 AM