烏羽美空朗

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白濁のスポーツドリンクを注いだ小さなペットボトルキャップに八匹もののアゲハチョウが群がり、羽根をパタパタとさせながらぎゅうぎゅうと押し合う。
手元の争奪戦から目を背けるように一面ガラス張りの温室を軽く見渡すと、それだけで沢山の色の情報が飛び込んでくる。俺に花や木の知識はないが、春夏秋冬いつでも何かしらの花が咲いているので、植える植物がきちんと考えられていることだけはわかる。

ぶうぅ〜ん……
不意に、聞いたことのある不快な羽音が聞こえた気がして振り返る。すると、すぐ真横にあった扇形の葉っぱから大嫌いなアシナガバチが飛び出してきたので、驚いた俺は慌てて身体を逸らした。

途端に、ぱあっと四方八方に逃げ出す七匹のアゲハチョウ。しかしながら、一匹の図太い個体はなお留まり、ライバルがいなくなったのをチャンスと見たか、堂々と真ん中に居座っていた。その様子を見ていると、俺も少しだけ落ち着きを取り戻してきて、キョロキョロと警戒しながらもスポーツドリンクを注ぎ足した。

ここはとある昆虫館。簡単に言えば沢山の生きた昆虫達と標本が展示されている建物だ。今俺がやっているように温室に放たれた蝶々との触れ合いもできる素晴らしい場所なのだが、いかんせん辺境な上に針葉樹林に隠れており、知っている人間は俺含め極わずかである。
……いや、もしかしたら俺にしか見つけられない場所なのでは、と本気で疑う程に、いつもいつも誰もいない。とても静かだ。

しかし、騒がしくて悪臭のする都市部が好きではない俺にとって、いつも穏やかで花や土の良い匂いがするこの温室は、誇張なしで理想の環境であった。
もっと早く、暗闇の真っ只中にいた頃にこの情景を知れていたら、俺は間違いなく、この場所こそ幸せという感情を知れる、いつかの絵本で見たキラキラの理想郷だと勘違いしていただろう。

ふと、足元の花壇の中、金のダリア一輪の影に隠れた黒い羽根が見えたので、そちらにも餌をやろうと顔を近づける。

それは確かにカラスアゲハだった。しかし、胴体がない。二枚の黒い羽根が脱ぎ捨てられた靴下のように無造作に、土の上に落ちているだけであった。ダリアの葉が陽光を遮り、その黒さを一層深めている。

あぁ、理想郷にも死はあるのか。

何故だか、俺はそんなことを思った。

理想郷

10/31/2022, 1:45:16 PM