お題「勿忘草」
小学生の頃、不思議なことがあったのを覚えている。
当時仲の良かったホナミちゃんという女の子がいた。
ホナミちゃんはあまり裕福な家庭ではなさそうで、服も文房具も古いものが多い。
体もあまり強くないらしく、昼休みもみんなと外で遊ばずに教室か図書室にこもっていた。
わたしも運動が好きではなかったので、よくホナミちゃんと一緒に教室でおしゃべりしたり、本を読んだりしていた。だから仲良くなったんだと思う。
ホナミちゃんはいつも同じ本を見ていた。
植物図鑑だ。いろんな草花の写真を見ては、「これかわいいよね」とか「こんな花あるんだ……」とか楽しそうだった。わたしも一緒になって見て、一緒に笑っていた。
そんなホナミちゃんは、決まって水曜日は8時まで家に帰れなかった。
理由は「おかあさんが家で仕事するから」だった。
その日は家の鍵も持たせてもらえず、学校にいても先生たちに追い出されてしまうので困っていた。
だから毎週水曜日は、わたしの家で遊んで、夕ご飯を食べて、お母さんと一緒にホナミちゃんをおうちに送って行った。
お母さんは、ホナミちゃんのお母さんに何回も話した。
家から追い出すなんて可哀想。
家で仕事だとしても、ホナミちゃんなら別の部屋で静かにしてることだってできる子でしょ。
お母さんが何度言っても、雑な相槌しか返ってこなかったので、お母さんも諦めて、ホナミちゃんに「二つ目のおうちだと思って、いつでもうちに帰っておいで」なんて言っていた。
わたしとしては、ホナミちゃんとたくさん遊べるし、なんならホナミちゃんもうちに住んでくれればいいのにと思っていたので、ホナミちゃんのお母さんがどうであろうと気にしていなかった。
そんなある日のこと。
水曜日なのに、ホナミちゃんと遊ぶことができなかった。
それは、ホナミちゃんのお母さんが、ホナミちゃんの持ってる家の鍵を取り上げなかったからだ。
「今日は帰っていい日なのかもしれないから、ちょっと帰ってみるね」
ホナミちゃんは少し申し訳なさそうに、でも嬉しそうに笑って帰っていった。
水曜日なのに一人で家に帰るのは、少し寂しかったのを覚えている。
その次の日のことだ。
ホナミちゃんは浮かない顔をしていた。どうしたのか聞くと、傷ついたように顔をしかめた。そして、鞄をあさって、私に何か差し出した。
小さな白い花のシール。
「これ、あげる」
「かわいい! これ、何の花?」
「勿忘草っていうの」
「ワスレナグサ……」
「会えなくなっても、ずっと、友達だよ」
「会えなくなっても? ……ホナミちゃん引っ越すの……?」
わたしの問いかけに、ホナミちゃんは俯いた。
わたしたちはそれ以上、何も話さなかった。
わたしの引っ越しが決まったのは、その次の日だった。
お母さんとお父さんがリコンすることになったのだ。
わたしがお母さんに連れられて家を出ることはすんなり決まったらしい。
なんでリコンするのか聞いてみたけど、「方向性の違い」とつまらなそうにお母さんは答えていた。
色々必要な手続きをして、わたしとお母さんはその町を後にした。
あれからもう10年以上経った今、わたしはカフェでぼんやりと大学の課題をやっている。
今まで、引っ越す前のことなんて思い出すこともしなかったのに。
わたしは昨日の掃除で発掘されたシールを眺めた。
見つかった後に課題のノートに貼り付けたのだ。
小さくて、白い、かわいい花。
ホナミちゃんに似合う花。
頭の中にホナミちゃんの笑顔が浮かぶ。そういえば、このシールをもらったあと、何も話さずに引っ越してしまった。
エスパーだったんだろうか。未来視とか……?
馬鹿げたことを考えて、自嘲した。すぐに課題の参考資料に目を向ける。
「あの……みっちゃんだよね?」
か細い声が聞こえて顔を上げる。
懐かしい呼び方だった。小学生のとき以来そんな呼び方はされていない。
目の前にいたのは、小柄で、肌が白くて、優しい笑顔をした女の子。わたしと同い年くらいの。
記憶の中の子より断然大人びて綺麗になっているが、ほんのりと面影があった。
「えっ、あ、え? もしかしてホナミちゃん?」
「そうだよ、覚えててくれたんだね」
ホナミちゃんは嬉しそうに笑う。わたしも嬉しくなって、見て見て、とノートの表紙を見せる。
「昨日掃除してたら出てきたから貼っちゃった。覚えてる?」
「うん、引っ越す前にみっちゃんにあげた勿忘草」
「そうそう! そっか、勿忘草って言うんだっけね」
シールを優しく撫でるホナミちゃん。ほんの少し、悲しそうな顔をした。
「あのときは……気持ち悪いこと言ってごめんね」
「気持ち悪いこと?」
「会えなくなっても……とか」
「ああ……もしかしてホナミちゃんも引っ越したのかなとか、実はエスパーだったのかなとか色々考えてたよ、分からなかったけど」
わたしは笑う。今はそう言えるが、当時は気味が悪くてホナミちゃんと話せなくなってしまった。
わたしの言葉に、ホナミちゃんは小さく笑う。
「エスパーじゃないけどね、私、みっちゃんがお母さんと引っ越すの知ってたの」
「え……?」
「あの日……私が家の鍵取り上げられなかった日、覚えてる?」
わたしは頷く。
ほんの少し嬉しそうに帰っていったホナミちゃんに、複雑な気持ちを抱えていたのだから。
いまだにそれを覚えているのも、考えものだとは思うが。
ホナミちゃんは目を細めた。悲しんでいるように見えた。
「あれ、おかあさんが取り上げるの忘れてただけだったの。帰ったら……おかあさんと……みっちゃんのお父さんが話してたの」
「え、お父さん?」
「そのとき、聞こえたの。『離婚するから、おまえと一緒になれる日も近い』って。みっちゃんはどうするのかってお母さんが聞いたら、あっちが引き取るから気にしなくていいって……。私、バレないように部屋に逃げたの。あの人は……8時回る前に帰ってった」
8時まで帰ってきてはいけない。そう言われていたのは、不倫をごまかすためだったのか。
お母さんは、その人たちに学童保育として使われていたのか。
何も言えないわたしに、ホナミちゃんは自嘲気味に言う。
「私の今のお父さんは、みっちゃんの前のお父さんなの」
気持ち悪いと思った。
堂々と不倫してたお父さんも、いいようにお母さんを利用したホナミちゃんのお母さんも。
「……なんで、ずっと友達なんて言ったの?」
口から出せた言葉は、ホナミちゃんを悲しませただろう。だが、制御はできなかった。
「ホナミちゃんのおかあさんと不倫してたなら、お父さんをホナミちゃんに取られたって、わたしが思ってもおかしくないよね? それでも友達でいられると思ったの?」
別にお父さんを取られたから嫌だとは思ってはいなかった。当時すでにお父さんは家に帰るのが遅かったし、お母さんと静かに言い争ってるのは知っていたから。
方向性の違いなんて、バンドの解散みたいなことをお母さんは言ってたけど、不倫してたこともきっと知っていたんだろう。
理由なんてどうでも良かった。
でも、わたしだけが知らなかったのは、悔しかった。
「思わなかったよ」
ホナミちゃんはつぶやいた。
「だから、せめてこれを、渡したかったの」
ホナミちゃんはまたシールを撫でた。
「当時の私のいちばんのお気に入り。好きな人に送りたいって、ずっと思ってたシール。好きな人ができるまえに、みっちゃんにあげちゃったけど」
ホナミちゃんは恥ずかしそうに笑った。
わたしは何も言わなかった。言えなかった。
お気に入りだなんて、好きな人にあげたいって思ってたなんて、今まで知らなかった。
なんでそんなものをわたしに。
ホナミちゃんは私のノートとシャーペンをとった。
端っこになにか書いている。
『勿忘草』
「漢字だとこう書くんだよ。忘れることなかれ。忘れるなって意味。花言葉も、『私を忘れないで』なの」
「私を……忘れないで……」
「私はみっちゃんに忘れないでほしかった。友達でいられなくても、お父さんを盗った泥棒として見られても、それでも私は、みっちゃんと遊んだ日々が、大好きだったから。恨まれてでも覚えててほしかった」
不倫のこと黙ってたのも恨まれポイントだったかな。
なんて、苦笑しながら付け加える。
だいぶ愛されてたんだな、わたし。
話を聞いても、わたしだけ知らなかった苛立ちと一部の人への嫌悪しか浮かんでいない。
ホナミちゃんのことを恨む気持ちなど浮かんではこない。
わたしはため息をついた。
「さっきまでは綺麗な思い出だったのに、一気にけがされたよ、まったく」
「ごめんね」
「あの町ってだいぶ遠いけど、今は何してんの?」
「……友達のお父さんがいる家なんて居心地悪すぎるからここら辺で一人暮らししてるよ。同じ大学。何回か見かけてるよ」
ついでに私、ここでバイトしてるの。
ホナミちゃんは悪戯っぽく笑う。
そりゃ声かけられるわけだ。わたしは降参したように両手をあげてひらひらさせた。
「結構通ってたのに気づかなかったなぁ……」
「みっちゃんいる時は裏での作業にしてもらってたから。これからはもう隠れないつもり。店長、それでお願いします」
ホナミちゃんはカウンターにいた店員さんを見る。
店員さんはニコニコしながら、指でオッケーサインをだしていた。
あの人、店長なのか……知らなかった……。
ひっそりと驚いていると、ホナミちゃんは安心したように息をつく。
「お母さん、元気?」
「元気も元気だよ。再婚とかはするつもりないみたい。あ、今から時間あるなら家来ない? お母さん休みだし」
「いや……会っていいのそれ……」
「引っ越すときに『ホナミちゃんは連れていけないかしら……』って言ってたくらいだし大丈夫だよ」
「みっちゃんのお母さん、懐広すぎない……?」
わたしはノートたちをカバンに入れた。
立ち上がって、ホナミちゃんに笑いかける。
「今日は水曜日だから、一緒に帰れるね」
ホナミちゃんも嬉しそうに頷いてくれた。
全然違う町なのに、小学生のときの懐かしさが蘇る。
家ではお母さんがホナミちゃんとわたしのためにお菓子をつくり、3人でゲームをして遊び、夕飯をわいわい食べ。
「今日の夕飯なんだろうねー」
「私、久々にコロッケ食べたいなぁ」
「グリンピース抜き?」
「もう食べられるようになったよ! 子供じゃないんだから!」
そんなことを言いながら、わたしたちは家に帰っていった。
おわり。
2/3/2023, 6:23:14 AM