風に乗って
放課後、俺は音楽室にいた。今日はパート練の日なので、各々コンクールの曲を練習している。
窓から入ってくる風で、譜面台が揺れた。トランペットを机に置き、慌てて楽譜を手で押さえつける。
「今日は風が強いですね」
隣を見ると、ケイ先輩も楽譜を抑えていた。
「窓を締めたほうが良いかもしれん」
「そうですね」
窓を締めようと、楽譜から手を離した。その時、ひときわ強い風が吹いた。
「ああ!楽譜!」
一枚の楽譜が、窓の外へ飛ばされていってしまった。
俺は窓から身を乗り出す。しかし、伸ばした手は届かなかった。楽譜が、ヒラヒラと下の方へ飛んでいく。
どうしよう、今年のコンクールの楽譜なのに。下は中庭だから、追いかければなんとか、なるかも。
窓を締めて、振り返ると、ケイ先輩がやけに真剣な顔をしていた。
「ユキト、今すぐ取りに行け。そろそろ如月先生が来る」
いつも冷静な先輩が、珍しく焦っていた。
そうだ、今日は顧問の如月先生が練習を見てくれる日だった。楽譜を飛ばしたなんて、バレたら、絶対怒られる。まずい、先生の機嫌が悪くなったら、部の今後が変わりかねない。
「と、取ってきます!」
俺は勢いよく走り出した。
階段を一気に駆け下り、中庭に向かう。息切れが酷く肺が苦しいが、止まる暇はない。
何やら声が聞こえてきた。
「こんな風邪が強い日に中庭なんてなあ」
ハヤテ先輩の声だ。あの人の声響くからな。
「譜面台が立てられない…」
レンの声も聞こえる。どうやらトロンボーンがパート練をしているようだ。
「いつもの教室を他の部活が使ってるとはいえ、屋内が良かったな。本来なら、砂とかも楽器にも良くないし」
「先輩が場所取りじゃんけんに負けたからじゃないですか……むぐっ」
「レン君の顔面に紙が!」
レンが、風の力で顔に張り付いた楽譜を手に取る。
「あれ、楽譜が落ちてきた」
必死に走って、やっと中庭に着いた。
「レン!」
俺は声を振り絞る。レンが驚いた顔をしていた。
「どうした、ユキト君そんなに息切れして」
ハヤテ先輩が、心配してくれた。
「……それ、俺の…楽譜………で…す……」
立ち止まり、息を整えながら、レンの持った楽譜を指さす。
「ほんとだ。ユキトの字」
レンが楽譜を差し出す。助かった…。
「あっ」
指の隙間を、楽譜がすり抜け、再び飛ばされてしまった。楽譜は、ヒラヒラと俺を嘲笑うように飛んでいく。
「そんな!」
楽譜は再び風に運ばれる。こんどは図書室の方へ。ふと、そこの廊下に、人影が見えた。
「ナツメ!それ取って!」
クラスメイトのナツメだった。
「おや」
ナツメは、文庫本を閉じると、優雅に楽譜を手に取った。俺とレンが、そちらに駆け寄る。
「ユキトの楽譜かな」
楽譜を差しされる。今度は、しっかりと受け取った。
「ありがとう、ナツメ」
本当に良かった。
「ふふ、楽譜が旅をしていたようだね。音楽は風に乗って。こんなに物理的だとは予想外だな。ふふふ」
ナツメは、口に手を添え、楽しそうに口角を上げた。相変わらず詩的なことを言う。
急に、焦ったようにレンが俺の肩を叩いた。
「ユキト、速く戻らないと。今日は如月先生が」
「そうだった!」
分け目も振らずに走り出した。
「ふふ、楽しそうだね」
「結構ピンチなんだけど」
背後から、夏目の落ち着き払った笑いと、レンのおっとりした声が聞こえてきた。
階段を、 一気に5階まで駆け上がる。急いで音楽室の扉を開けた。妙に設備の良い、私立の我が校が、今は恨めしい。
「ただいま戻りました」
ぐったりと疲れた。もう足が動かない。
「見つかったか、ユキト」
「はい、なんとか」
ケイ先輩の顔を見て安心した。どうやら間に合って…
「おや、お帰りユキト君。随分元気に走り回っていたね。どこに行っていたのかな」
なかった。奥から出てきた如月先生が、優雅に微笑む。
終わった。如月先生は、普段はとても優しいが、名門音大のピアノ科出身で、若きエリートといった感じだ。それ故、音楽、とりわけ部活の合奏の事になると怖い。
「き、如月先生。これは、その、」
如月先生が、急にふっと笑った。
「ははは、良いんだよ。楽譜が風で飛ばされたんだって?次から気をつけようね」
拍子抜けした。怒られないとは。
「ただ、今日の個人練習。きっちり見てあげるからね」
肩に手を置かれる。にっこりと笑っているが、今度は目が笑っていない。
「は、はい」
結局こうなるのか…。
4/30/2026, 10:40:12 AM