『水平線の光る朝に』
彼は、人に優しくあろうとしていた。
それは性格というより、ほとんど意志に近いものだった。
出来るだけ嘘はつかないように。
誰かが痛みを感じたとき、それを自分のことのように想像できるように。
そうやって生きていれば、どこかで間違えずに済むと思っていた。
けれど、ある日、彼は知る。
正しさは、ひとつではない。
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誰かを守ろうとして選んだ言葉が、
別の誰かを深く傷つけていた。
気づいたときには、もう遅かった。
言葉は取り消せないし、
選ばなかった方の未来は、もう戻ってこない。
彼はその日から、何かを選ぶたびに、
同時に何かを失っている感覚に襲われるようになった。
それでも、人は選び続けなければならない。
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朝、海に出た。
水平線が、静かに光っている。
あまりに整ったその景色は、
何もかもが正しい形に収まっているように見えた。
そのとき、不意に思い出した。
壊れた約束のこと。
守れなかった言葉のこと。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる。
音はしなかった。
ただ、確かに崩れたとわかる感覚だけが残った。
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風が吹く。
崩れたものの欠片が、どこかへ運ばれていく気がした。
彼には、それがどこへ行くのか分からない。
ただ、その先で、
それを「綺麗だ」と言う誰かがいるのかもしれないと、
ふと、思った。
それは、救いなのか、残酷なのか、判断がつかなかった。
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その日の夜、彼は人に尋ねた。
「どうすれば、間違えずにいられると思う?」
相手は少し考えて、首を振った。
「見えないものを、大事にするしかないんじゃない?」
それだけだった。
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心は、見えない。
だから、測ることも、比べることもできない。
それでも、人はそこに何かがあると信じて、
言葉を交わし、手を差し出す。
彼は、ようやく理解する。
自分は、ずっと“見えるもの”で正しさを測ろうとしていたのだと。
結果や評価、形になったものばかりを見て、
そこに至るまでの“見えないもの”を、
置き去りにしていたのだと。
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日々は、静かに重なっていく。
気づけば、会えなくなった人がいる。
理由をはっきり思い出せるわけではない。
ただ、時間の中で少しずつ距離ができて、
そのまま戻らなくなっただけだ。
それもまた、選択の結果なのだろう。
⸻
ある夜、彼は夢を見た。
何かを成し遂げて、
たくさんの拍手を受けている夢だった。
歓声は大きく、
誰もが祝福しているように見えた。
けれど、その中に、
確かにひとつだけ、違う音が混じっていた。
悲鳴だった。
誰にも気づかれないほど小さな、
けれど、確かに存在する声。
彼はそこで目を覚ました。
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答えは、ひとつではない。
それどころか、いくつもあって、
そのどれもが完全ではない。
人は、その中から選び続け、
そのたびに悩む。
その繰り返しの中でしか、
自分というものは見えてこないのだと、彼は思う。
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誰の記憶にも残らない日がある。
何も成し遂げず、
何も変わらないまま終わる日。
それでも、確かにそこに自分はいた。
雑音と足音の中で、
確かに呼吸をしていた。
それを、否定する理由はどこにもない。
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朝が来る。
また、水平線が光っている。
昨日と同じようでいて、
どこか違う光。
彼は、しばらくそれを見つめる。
崩れたものは、元には戻らない。
けれど、消えたわけでもない。
どこかへ流れていき、
形を変えて、
また誰かの目に触れるのだろう。
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彼は思う。
それでいいのかもしれない、と。
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正しさは、揺れる。
優しさも、時に人を傷つける。
それでも、人は願う。
出来るだけ嘘をつかず、
誰かの痛みを、自分のことのように思えるようにと。
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水平線が光る朝に、
彼は静かに立っている。
何も解決していない。
何も終わっていない。
それでも、もう一度、歩き出す。
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やがて彼も、見ることになるだろう。
自分が手放したものが、
どこかで光っているのを。
それが何だったのか、
そのとき、ようやく分かるのかもしれない。
3/29/2026, 10:55:45 PM