薄墨

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「大切なものは目に見えない」そう言った狐は、“特別な存在になる”ということを「懐かせること」だと言った。
慣れさせて、懐かせて、いつもの風景にその存在を思わせること、だと。
それは果たして真実だったのだろうか。

俺にはわからない。

ただ、ひとつ、わかることは、そうやって慣らし、手懐け、俺にとっても彼にとっても特別な存在となったはずのアイツは、俺を置いて逃げ延びてゆく、ということだ。

額の上を、鉄臭く生ぬるい液体が滑る。
逃げていく、さっきまで仲間だったはずの人々を、責めようというつもりはない。
むしろ正しいし、よかったと思う。
中途半端な道徳心で、一介の、この場においてはただの“人的資源”でしかない、ただの一兵士である俺にかまって、逃げ遅れたり、殺されたり、あるいはヘマをして他の民間人に迷惑をかけたりするよりは全然マシだ。
何せ生き延びられるのだから。

理性では、心の底からそう思う。

しかし、俺の醜く厚かましい本能は、黙っていてくれない。
建物の破片に敷かれた足の感覚がない。
脳はその分まで働きたいのか、熱く熱を持ち、本能の不平を内側からガンガン訴える。

あれだけのことをしたのに。
お前が住んでいた村、敵兵によって支配され、蝕まれつつあったあの村を守ろうと戦ったのは俺たちの分隊だというのに。
精神を病んだ母のせいで、安らげる場所をなくしたガキのお前に、水を与え、菓子を与えたのは俺だというのに。
子守唄を歌ってやり、背をさすってやったのは俺だというのに。

敵に惑わされ、ひどい仲間割れと監視社会への一歩を踏み出したお前たちを押し留め、奴らを追い払ったのは俺たちだというのに。

それでも、奴らが俺たちを負かすときたら、村の大多数を占める民衆たちは、みんな兵士をおいて逃げてゆくのだ。

生きるために。

正直、良い気分ではなかった。
昔、俺の周りの大人たちは言った。
「自分が正しいと信じたことをしてごらん。自分がしてほしいことを相手にしてあげてごらん。助かり喜ぶ相手の感謝の気持ちは、きっとあなたの心を温かくして、あなたの気分を良くさせてくれる。」

俺は自分が正しいと信じたことをした。
自分より弱い者たち、不幸な者たちを救おうとした。
畜生、曲がったままの背骨が痛い。
俺は正しいと思うことをした。
俺は相手を力の限り助けた。

しかし、彼らは逃げていく。
俺が背をさすってやったあのガキも。
俺の手を握ってくれたあの人も。
一緒に語らい、共に酒を飲んだあの人も。
懸命に戦う俺たちを背に、恩人たちを背に、
俺たちの力を享受していたはずなのに、俺たちの力に好き勝手ケチをつけながら。

敵兵がこの地を占領し、この村を支配する権力を手にし、“特別な存在”となったとき、彼らはきっと言うだろう。
「今まで、不当に従わされていた」と。
俺たちの支配は「酷かった」「間違っていた」と。

生きるために。

生ぬるい液体の重みが、俺に目を瞑らせる。
遠くから近くから轟音が、俺の耳を塞ぐ。
俺に見えない、聞こえないところで、俺が守り救ったはずだった、俺の特別な存在たちが、俺らを見捨てて逃げてゆく。

それでいい。
それでいいんだ。力を持たないのだから。
俺の理性は静かに言う。

良い気持ちではなかった。
けれど、悪くない気分だった。

3/24/2026, 8:40:54 AM