茶園

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短い小説『時を告げる』

 「時間だ…行ってくるよ」
 荒れる波。波打つ水しぶきが船着き場にも掛かる。これから船出の時間だというのに、それを引き止めるような悪い天候だ。
 これから、数年間遠い国へ単身赴任しなければならない。最愛の妻を置いて遠い所へ行くなんて、想像もしていなかった。恐らく妻も想像していなかっただろう。
 数年間ハグが出来ないのは辛いし、当たり前のように横に座ってテレビ見てご飯食べて他愛もない話をしていた日々がかけがえのない日々のように巡ってきて、目頭が熱くなる。最後に、もう一度だけしっかりとハグをして、しばしの別れの挨拶をしよう…。
 妻もハグがしたかったようで、腰から首に手を回し、キスをしてきた。妻の唇はいつも以上に熱かった。
 汽笛が鳴った。このまま時間が止まれば良いのにと思ったが、行かなければならない。
 …別れの時を告げることにした。
 「…もう時間だ。行ってくる。しばらく会えないけど、数年後には必ず戻って来るよ。…そうだ」とっさに思いつき、カバンに付いている愛用のキーホルダーを外した。
 「これ、僕だと思って。」
 愛用のキーホルダーを妻に渡した。これで少しでも寂しさを紛らわせれたら嬉しい。
 妻は重い表情でも、少しだけ顔が綻び、受け取った。

 …だが、その時、違和感を覚えた。
 もう一度確認したが、妻の指には結婚指輪が無かった。ずっと付けていたのに、一体どうしたのだろう。
 妻の顔をよく見てみた。うつむき気味だが、口角は大きく上がっており、細かく震えている…ように見えた。キーホルダーがそんなに嬉しかったのだろうか。
 妻は何も言わなかった。ただキーホルダーを握りしめていた。悲しいが、船出の時間なので振り返らずに船に乗った。

 戻った時、家の中は妻のものは一切無くなっており、あの時渡した愛用のキーホルダーだけが置かれていた。
 別れの時を告げたのは妻の方だった。

9/6/2023, 3:47:39 PM