「海の底」
夜の海へ出かけると、人魚に魅入られて海底へ連れ去られてしまうらしい。
「だから夜に出かけてはいけないよ」
父や母は子守唄のようにそんな言い伝えをよく話してきた。
上半身は人の姿で、下半身が魚の尾。嵐の前に現れ、美しい歌声で人を魅了し、船を沈ませる。厄災の象徴。
しかし、そんなものはただの言い伝えに過ぎない。
なぜなら僕は知ってるからだ。
8月の夜、海沿いに面してる窓からその姿を見た。
人が、女性なのか男性なのかわからないほど、辺りは暗くて。それでも、海の水面にキラキラと反射する尾が美しく。ここらでは見慣れない青い瞳が、暗闇でもわかるほど怪しく輝いていたことを、よく覚えていた。
おいで、おいでと優しくあやす様な歌声に、気がついたら眠ってしまっていたけれど。
あれが人魚だと云うのなら、厄災の象徴と云うのならば。それはなんて…
言い伝えの船乗りは、人魚に魅入られ海の底へ落ちたらしい。
美しい歌声に包まれながら。
でも、きっと。
海の底へ落ちるのは人魚に魅入られるからではない。
人魚に魅了されるから落ちるのだ。
あの人魚のいる海底へ連れ去られてしまったのは、僕自身ではなくて、僕のちっぽけな恋心だった。
戻れなくなるとわかっていても、僕は。
あの美しい歌声に、包まれて死ぬのを望んでしまうんだ。
1/20/2026, 2:39:04 PM