幸せ。
概念は知っている。それがどういうもので、どういう感情なのか。知識としては知っている。
だが俺は、これまでの生で幸せというものを実感したことがない。
だからそれがどんなものか、いまいち理解しきれていない。
「幸せだねえ」
あなたが言った。
手の中の紅茶を傾けながら、蜂蜜色の目を細ませて。
二人しかいないこの温室の中で、目の前の顔は柔らかく頬を緩ませ、満足そうに笑っている。
俺には幸せというものがよく分からない。
しかしあなたが言うのだから、今この時間は、幸せと呼べるものなのかもしれない。
あなたがフォークを手にする。手元のケーキを小さく切り分け、欠片となった一切れにフォークを刺す。それが俺の方へと差し出されるのを見て、以前に言われた通り、わずかに身を乗り出した。
ケーキを口で受け取ると、あなたがいっそう笑みを深める。身動ぎと同時に俺の膝の上で、じゃらりと鎖の音がした。
以前俺がいた環境は、我ながら酷いものだった。
そこから連れ出してくれたあなたには、感謝してもしきれない恩を感じている。
ここに来てから両手は枷を嵌められて、可動域は酷く狭くなった。
両足の腱は切られて、自力ではもう立つことも覚束無い。
舌は半分切り取られたから、まともに喋ることも難しい。
目の前であなたが穏やかに笑う。
幸せ。これが幸せなのだろうか。俺にはよく分からない。
だが、ここには平穏がある。
自分で動くことは難しいが、三食手ずからあなたが与えてくれて、車椅子に乗せられて散歩にも連れ出してくれる。近頃は傷つけられることもなく、何に煩わされることもなく、のどかな時が流れている。
「おいしい?」
小首を傾げるあなたに小さく頷いて、ぼんやりと温室の中を見る。瑞々しく茂った植物は陽を受けて輝いていて、目に映るこの光景は、とても美しいような気がした。
あなたが言うのだから、これが幸せなのかもしれない。
/『幸せとは』
1/5/2026, 3:52:27 AM