《言葉はいらない、ただ・・・》
夜、ふと目を覚ました私は、自分が何故か真っ白い猫になっている事に気付いた。
鏡で見ると、毛色と瞳は自分の色そのまま。白毛で赤紫の瞳の猫がそこに映っていた。
『うわ…猫になってる…これ、どうしよう…』
この真夜中に彼に迷惑が掛からないよう何とか悲鳴を堪えてはみたけれど、その声も猫の威嚇音そのもので人語での会話は到底不可能っぽい。
ぼんやりとした記憶を辿ると、夢現の中で聞こえた声が蘇る。
あなたの本当の望みに気付けた時、元の姿を取り戻せるでしょう。
それは、地の底から響くような低い声で。いったい、何がどうしてこうなったんだろう。
とにかく、私の本当の望みを見つけるしか戻る手立てはないみたい。
本当の望み…彼とこうして一緒にいられる事で満足してるのに、どうやって見つければいいのか。
見つからなかったら、ずっと…このまま?
人間に戻れないままで彼と一緒に暮らすの? いや、暮らしていけるの?
どうしよう。分からない。怖い。
私はどうしようもない不安に襲われながら庭を走り、彼のいる部屋へ向かった。
とにかく今は、彼の顔が見たい。自分の姿が猫に変わった不安でただ一杯になった私は、その事しか考えられなくなっていた。
彼の寝室の手前にある書斎の窓からは、明かりが漏れている。
まだお仕事してるんだ。こんな夜遅くまで。
いつも帝国の為に頑張っている彼を思うと、猫の姿でも涙が出そうになる。
書斎の窓に近付き見上げると、風を通すためか開け放たれている。
この位の高さなら、間違いなく飛び乗れる。
せーの! と心の中の掛け声を合図にジャンプする。庭を走っているうちに身体を使うのに慣れたのか、想像以上にスムーズに飛び乗ることができた。
窓枠に着地して部屋の中を見ると、ちょうど書類を書き終えたのか、机に向かっている彼がペンを置いたところだった。
昼間は本部の執務室でその様子を見てるけど、真夜中まで根を詰めているなんて。身体を壊さないでほしいな。
ここに来た目的すら忘れて見入っていると、椅子に座ったまま窓を向いた彼と目が合った。
窓の外から差し込む月の光に照らされた彼の顔はとても綺麗で、私は我を忘れて見惚れていた。
彼の顔が見れた。よかった。本当に、よかった。
私は、思わず彼の名を呟いた。
それでもその音は思った形にはならず、口から出たのは小さな猫の声。
その自分の声で何故必死になってここに来たのかを思い出した私は、窓枠から飛び降りて彼の足元に向かった。
彼は、そんな私の様子を椅子に座ったまま黙って見つめていた。
そうして彼の手前に辿り着き、床に腰を下ろしてふと気が付いた。
そうだ。そもそもこの部屋に動物…猫が入り込んで大丈夫だったのかな。
自分の身体の異常に気を取られて考えていなかった。もしかしたら、今もう彼に迷惑を掛けてしまったかもしれない。
『ごめんなさい…。』
当然ながら口には出せないその言葉を、それでも伝えたいと口にする。
気が付いた事実に落ち込み、うなだれてしまう。
どうして後先考えずに動いてしまったんだろう。もっと彼の事をよく考えていれば、こんな軽率な事はしなかったのに。
すると、頭の上から彼の優しい声がした。
「いいよ。おいで。」
いつも話し掛けてくれる時の口調とは違う、砕けた言葉遣い。
そこに、逆に彼の優しさを感じた。相手を気遣わせまいとする、彼の優しさを。
見上げれば、彼は柔らかく微笑みながら私に手を差し出してくれている。
いい…のかな。
私は、少し緊張しながら彼の手に近付き、指先にほんの少し額を付けた。
それだけでも、ちょっと不安が溶け出した。
彼の指先の暖かさにホッとしていると、それが不意に離される。
その温もりを名残惜しむ暇もなく、その手は私の首筋に周り優しく背中を撫でられる。
嬉しい。あったかいな。
その喜びの大きさに驚いたけれど、それを上回る嬉しさと撫でてくれる手の暖かさに、私の不安はどんどんかき消されていく。
嬉しくて、嬉しくて。猫である私の喉からは、意識せずともゴロゴロと喜びの証の音が鳴る。
背中を撫でる彼の大きな手にうっとりしていると、突然私の身体が宙に浮く。
彼が私の前足脇から両手を入れて持ち上げたのだ。
突然の事にびっくりはしたけれど、彼は絶対に乱暴な事はしない。
それを知っている私は、彼のなすがままに身体の力を抜いていた。
彼の優しい顔に、私の身体が近付いて行く。
そして私はすとんと彼の膝に降ろされ、またさっきと同じように首筋から背中に掛けて撫でられた。
私は彼の膝に座り、その身を任せていた。
彼は何度も猫の私の背をを撫でながら、柔らかい蕩けるような笑みを浮かべてる。
猫に変わってしまった不安は、もうどこにもなくなった。
話せなくともあなたの笑顔で、掌で心はこんなにも満たされる。
ここが私の、一番安らげるところ。
こんな風に、言葉はなくてもいいから心を通わせていたいな。
目を閉じてそんな幸せを噛み締めていたら、額にふにっと暖かい感触が。
ハッとして目を開くと、視界は彼の頬で埋まっている。
彼が、私の額に頬を寄せたんだ。
微かに見える彼の横顔は、猫の温もりを堪能しているのか心底嬉しそうで、心なしか頬も上気してるみたい。
よかった。あなたも嬉しそうで。
私は溢れ出る想いを伝えようと、彼の頬に何度も顔を擦り寄せる。
あなたが喜んでくれると、私も嬉しい。
高鳴る喉の音。気持ちが伝わるといいな。
すると、ふと彼が真正面から私の目を真っ直ぐ見つめてきた。
その瞳は包み込むように暖かく、ひたすらに真摯な光を灯していた。
「僕は、あなたが愛おしい。あなたと一緒に暮らしてみたい。」
私は、ハッとした。
言葉はなくていい。そんな事をさっきまでは思っていた。
でも。それでも、やっぱり。
元の姿で、その言葉が聞きたい。
あなたが私といることで、大きな喜びを感じてほしい。
そして、それを言葉にしてほしい。
やっぱり私は、とんだ贅沢者だ。
あなたから闇の者と疑いを掛けられてる今の私には、決して手が届かないもの。
それでもその両方が、私の欲しいもの。
私は、彼の瞳を見つめ返した。
心臓が破けそうなくらい、鳴り響いてる。
でも、この姿だから。許してね。
私は彼の頬に一度だけ額を擦り付けて。
そして、猫の舌でその頬を舐めた。
ざらつく部分はなるべく触れないように、そっと。
『…ごめんね。』
私は猫の声でそう呟くと、その手に捕まらないうちにサッと彼の膝から降りて窓へと走った。
「あ…!」
背後で、彼の声がした。
びっくりさせちゃったかな。ほっぺたにあんなことしちゃって…。
窓に飛び乗り、腰を降ろして振り向き彼を見る。
月の光に照らされた彼は追いすがるように私を見つめ、私を撫でていた手をこちらに伸ばしてくれていた。
その想いを、受け取りたい。
けれど、ごめんなさい。猫の姿じゃダメなんだ。
それは、私の本当の望みじゃないから。
身体の奥で、激しい脈動を感じる。
本能で感じる。元の身体に戻れるのだと。
愛おしいと言ってくれて、ありがとう。
その言葉を胸にしまって、これからも咲ってあなたの隣に立っていたいから。
だから。
『また、明日!』
私は最後に彼に告げ、書斎の窓から庭へ駆け出した。
彼に見咎められないよう、身を隠しながら自分の寝室へ走る。
慌てて寝室の窓から部屋に戻れば、その瞬間に身体は元に戻っていた。
それがあなたの望みですか。精々叶うとよいですね。
窓の外、月の光で白く輝く庭。その地の下から声なき声が低く響いたような気がした。
8/30/2024, 4:41:03 AM