「ここでいいよ」
「あ、うん」
振り向いて、僕は彼女の手から荷物を受け取った。持ち手が少しくたびれた小ぶりのボストンバッグ。荷物はたったこれだけ。もう暫くここには帰ってこれないというのになかなかの身軽だ。何を旅に持ち歩くべきなのか一晩考えてみたけれどあまり浮かばなかった。だから、最低限のものだけ詰めたらこの容量で間に合ったのだ。
「元気でね」
「うん。キミもね」
僕に向かって微笑む彼女。でも、その笑顔はくしゃくしゃで、とても嬉しそうには見えない。溢れんばかりの涙をためて、精いっぱいの笑顔を見せてくれている。ありがとう、見送ってくれて。別れを惜しんでくれて。これ以上何か優しい言葉をかけたらいけない。そう思ったから僕は、ぽんと彼女の頭に手を置いて、じゃあね、とだけ言った。そして1人歩き出す。間もなく乗るはずの汽車が来る。肌寒い明け方のホーム。僕らの他には誰も居なかった。
「ねぇっ」
背後から彼女に呼ばれた。振り向いて顔を見ると、堪えていた涙はもう限界を達していて、両目から次々と流れ落ちていた。
「もしまた、どこかで会えたら……また巡り会えたら、好きになってもいい?」
懇願にも近いような声音で彼女が言った。分かっていたよ、キミの気持ちはずっと前から。でも今日まで気づかないふりをしていた。そうでもしないと、この日がもっと辛いものになってしまうから。ごめんね、キミの気持ちに応えられなくて。僕は何も言わなかった。期待をもたせるようなことは言わない主義だ。言葉を贈らない代わりに両手を目いっぱい彼女に向かって振る。泣いている彼女が朝焼けに包まれて神秘的だった。
ありがとう。ごめんね。じゃあね。
また、巡り会おうね。
10/3/2023, 12:10:37 PM