目が覚めるとアザラシになっていた。
アザラシ? とアザラシは思った。
前ヒレをぺたんと自分のほっぺたにつけて、ファンデーションをするようにもちもちさせた。
そうやっていると、そういえばそうだったなと思い直した。
アザラシになった手前、こんな話をするのは良くないとは思っている。
前世という概念が仮に続いているのであれば、アザラシの前世は人間ということになる。
人間時代、しごおわに家に帰り、部屋にぐでんと待っている130センチの抱きぐるみにむぎゅうすること。
するといつの間にか朝を迎える、というのが、一日のスケジュールだった。
アザラシの抱きぐるみである。
白いもふもふ。正体はアザラシの形をした綿であるが、それでも脳みそは癒しを求めていた。
社会という波に揉まれて、身体のすみずみまで疲れの色素が沈着していた。その身体の上に、お留守番していたぬいぐるみを乗っけて、
「あ〜、今日も疲れてますね〜」
と一人芝居をしていた。数え切れないほど、
「あ〜、しろ◯んになりたい〜」
と言いながら睡魔にいざなわれ、どこかの手違いで白いアザラシになった。
時々自分がアザラシであることを忘れてしまう。
鏡があれば一目瞭然なのだが、ここは動物園である。
たしかにガラス壁はあるのだが、反射が心もとない……仕方がない。
保護されている立場、王様ではないのを自覚する。
それ以前に言語が喋れなかった。
あれしろこれしろと命令ができない。
アザラシに命令されて、嬉しくてたまらないという人間はガラスの壁の向こう側、のみならず、いたるところにいるのに。できない。もどかしい。
そんなアザラシでも、園内を勝手に散歩することは許されていた。
いや、許されているというか、自由気ままに行動した末に迷子になって、ちょうどよく飼育員に見つかって、救助されて、台車に乗せられて丁寧に戻される、ということが多い。
脱走に怒られるどころか、戻るついでに小魚もいっぱいもらえて嬉しい。
飼育員はさぞや脱走癖のあるくせ者扱いしているだろうが、ライオンが脱走するより無害だからか、ゆるい容認がされている。
アザラシ自体もそこはわきまえているというか、園内までにしてやろう感があって、決して動物園の敷地外には出ない。種族は違うが他の動物はみんな友達である。
そういうわけで、アザラシはこの日も脱走した。
しばらくして、女性の声がした。
「今日はキリンさんのところか〜」
動物園的には、ある種この脱走癖を利用していて、広報までするくらいだった。
いたるところにカメラを置いて、アザラシの首元に仕掛けたGPSをつけさせて、園内サイネージに道筋と現在地を表示させている。
このアイデアは、この女性の飼育員由来。
以来この動物園の定番にまでさせていた。
パンフレットにも「今日はランちゃんはどこにいるのかな?」と茶化している。容認というべきか心が広いのである。
予想通りキリンのところにいくと、先に発見したらしい人だかりができていた。見ると、アザラシはキリンの肩にいてジョッキーの真似をしていた。
自由なアザラシは制限されても自由のマスコットだった。
7/11/2024, 12:30:27 AM