【題:この場所で】
藍に染まった海のそばに、一人の青年が立っている。
彼は頭のなかで言葉を並べた。
――今この場所で、僕の物語を終わらせよう
青年は靴を脱ぎ、二足ともを海へ投げ捨てる。
あっというまに波に飲み込まれ消えてしまった。
――僕も、あんなふうに消えられるのか
裸足となった青年は、その砂浜よりも白い足を、海へ海へと引きずってゆく。
彼の歩みは、波が膝までかかっても、半身が海水に浸っても、足裏が地につかなくなっても止まることはなかった。
やがて彼は大きな波にさらわれ、沈んだ。
呼吸ができなくなり、波に身体中をもてあそばれ、皮膚が更に青白くなっていく。
それはまさに、彼が望んでいたことそのものだった。
――やっと終わらせられる。
もうあまり回らなくなった頭で、そう思い浮かべる。
それはもうすぐ意識がなくなるかというところだった。
彼の左手首をなにかが掴んだのだ。
そこから伝わる人肌の温度は、彼にどうしようもない恐怖を与えた。
青年は無意識のうちに足や手をジタバタとさせて、自身を捉える存在から逃げようとする。
その存在は、逃がすものかというように強く、今度は彼の胴体を抱き締めた。
暴れて疲れたせいか、青年の意識はそこで途絶えた。
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彼が目を覚すと、そこは岩の上であった。
いまだ波の音がうるさいほどに聞こえる。
「あ、起きた?」
声がする方には、彼と同じほどに見える少女がいた。
「なんで助けたんだ! もう、終わらせたかったのに……」
青年は苛立ちに任せて少女に話した。
少女はしばらく、黙って海を見つめる。
やがて彼女は、ぽつりと口を開いた。
「わたしもね、家、出てきたの」
青年は驚きはしたが、不思議ではなかった。彼女の横顔には、さっきまでの強さとは別の、少しだけ震える影があった。
「ここに来たのは区切りをつけるためだった。明日からは、昨日までのわたしとは違う生き方をするためだった」
風が強くなり、砂が足首をかすめる。
「……ねえ」
少女は青年のほうを向いた。
「もし終わらせようとしてるならさ、いっそ一緒に始めない? 新しい物語」
冗談のような言い方だったが、目は笑っていなかった。まっすぐだった。
青年の左手首には、少女に付けられた赤い痕が、いまだ残っていた。
彼にはそれが、彼女が青年へ向けた人情の証に見えた。
胸の奥で、何かがほどける。
「……いいよ」
波の音でかき消されそうなほどかすれた声で呟いた。
少女は小さく笑う。
「じゃあ決まりだね。これからよろしく」
「……ああ、よろしく」
寄せては返す波の音が、まるで拍手のように響いた。
この場所で、二人の物語は始まった。
2/11/2026, 11:39:37 AM