赤とんぼ

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【忘れられない、いつまでも。】


昔、三途の川の橋を渡ってしまったことがあります。
きっと夢だと思うのですが、どうしても忘れられないのです。

私は小さい頃、大きな病気をしました。集中治療室に運ばれて、三日間目を覚さなかったそうです。
私はその三日間、夢を見ました。今でも夢の内容をはっきり覚えているのです。なぜかその場所の匂いや触ったものの感触もよく覚えています。まるで、本当にあったことのように。
小さい頃は本当にあったことだと思っていました。けれど親も友人も信じてくれないので、夢を見ていたのだといつしか思うようになっていました。
あれは一体なんだったのでしょうか…

その時の私は、自分がなぜ橋を渡っているのか、ここはどこなのか、何も分からずに機械のようにただただ歩いていました。確か、木の板でできた橋はじっとりと濡れていて、端々が腐っていました。橋の下の川は流れが激しく、真っ赤に染まっていて、白い服を着た人間が大勢流されていました。私は不思議なことに、そんな状況になんの疑問も示さず、橋を渡っていました。人間のうめき声と何かの怒鳴り声の混ざった空間は、まさしく地獄でした。

「君はまだ生きてるじゃないか。何をしているの?」

突然人に話しかけられました。でもその人は恐らく人ではありません。何せ、頭から角が生えていたのですから。きっと彼は獄卒、というものなのでしょうね。でも幼い私は何か普通の人ではないとは思いつつも、ここが地獄だなんて思いもしませんでした。
「ここはどこなの?」
私はその獄卒に話しかけました。やっと私は正気を取り戻したのか、その瞬間からみるみるこの状況が恐ろしくなってしまって、今にも泣きそうな、そんな心持ちでした。
「ここ?あー…ここはねーー…、君にはここはまだ早いよ。お家にお帰り。」
獄卒は少し考え込むような顔をした後、話をはぐらかすかのようにそう言って、私を引き返すように促しました。
「おうちはどこなの?わからないの。」
獄卒にそう言うと、獄卒は困ったように立ち尽くした後、私の目線に合わせるようにしゃがみこみました。
「じゃあ送ってあげよう。でも俺は君たちの住んでるところに行っちゃいけない決まりなんだ。代わりに車を出してあげる。それに乗っていけばあっという間だから。ついておいで?」
獄卒は私の手を繋いで、ゆっくりと歩き出しました。獄卒は顔こそ怖かったのですが、声色は本当に優しくて、爪が私に刺さらないように包み込むように手を握ってくれました。

そうして獄卒と歩いている間、私はいっぱい怖いものを見ました。白い服の人たちを怒鳴りつけている角の生えた大きな人。地面に染み込んだ返り血。人の骨。泣き叫ぶ声。私はそういったものを見るたびに「ひっ!」と小さく悲鳴をあげるものですから、獄卒がそういう時は必ず私の目を塞ぐように、顔の前に手をかざしてくれます。次第に獄卒に心を開いていった私は獄卒といろいろな話をしました。
「どうしてつのがはえているの?」
「これは生まれつきなんだ。ここではむしろ生えていない人の方が珍しいんだよ。」
「わたしね、さっきまでびょういんのベッドでねていたきがするの。なんでここにいるのかな?」
「じゃあきっと今も寝ているんだよ。これはきっと夢だよ。」
「そんなはずないよ!だってゆめならにおいとかわからないもん。」
「ううん、きっと夢だよ。匂いのある夢だってきっとあるよ。君は夢を見ている時、これが現実だって思うだろ?夢を見ている間は現実と夢の区別がつかなくなるものさ。」
「…ちょっとむずかしいかも。」
「そうだよね。ちょっと難しいかな。」
「きえちゃうの?もしこれがゆめなら、おきたらおにいさんはきえちゃうんだよね?」
「消えるよ。消えちゃうけど、消えていいんだよ。こんな悪い夢の記憶は。」
「ここのきおくはきえてほしいけど、おにいさんのきおくがきえるのはちょっといやだ。」
「…大丈夫だよ。本当に消えて欲しくないものは、いつまで経っても消えないものさ。」
「へぇ…。」
獄卒の言うことはたまによく分からないものがあったのですが、獄卒と話すのが何だか楽しくて、私はいつの間にか怖いのも忘れていました。

「それじゃあね?バイバイ。」
時代劇なんかでよく見る人力者のようなものに私を乗せた後、獄卒は優しく笑って手を振りました。
私は獄卒が名残惜しくて、獄卒の手をずっと話せずにいました。
「手、離してくれる?帰れないよ?」
「いやだ。おにいさんがきえちゃうの、いやだ。」
私は半泣きで獄卒にそう縋りました。獄卒は困った顔をして、いつものように優しく言いました。
「消えないよ?君の記憶からは消えるけど、俺はどこかにいるはずだから。いつか会えるよ。…でもあんまり早く会っても困るなぁ。君を迎えるための宴会の準備ができない。」
獄卒は冗談っぽくそう言って、私の手を優しく離そうとしました。でも私は離しませんでした。
「いやだ!きおくからきえちゃうのもいやだ!」
私はついに泣き出しました。獄卒はおろおろとしながらも、しっかり私の目を見て、「君が消えて欲しくないのなら、消えないよ。さっきそう言っただろ?消えて欲しくないものは消えないって。だからきっと君が本気で消えて欲しくないのなら消えない。ほら早く行かないと、本当に帰れなくなっちゃうよ?」と言いました。
私は袖で涙を拭った後、獄卒を見ました。獄卒は優しい顔で微笑んでいます。
「わたしがもういちどここにきたら、けっこんしてくれる?」
彼にとっては子供の戯言にしか聞こえないと思うのですが、幼い私にとっては清水の舞台から飛び降りるような思いで言った、プロポーズだったのです。
「うん。約束。」
彼は一瞬戸惑った後、笑ってそう返しました。
私は手を離しました。すると人力車が発車します。途端に私の意識は曖昧になってきました。ですが私は意識のある限り、彼に向かって手を振りました。彼も手を振りかえしました。そこから私の記憶は全くありません。気がついたら病院のベッドで家族と医者に囲まれていました。

本当に消えて欲しくないものは消えないのですね。
私は今日まで一日だって忘れたことはありません。私が今生きているのも、あの獄卒のおかげです。

私は死ぬのが怖くないのです。死んだらあの獄卒に会えるのですから。でもあんまり早く死んでしまうと、獄卒に怒られてしまう気がします。本当は綺麗なまま死んでおきたいのですが、しょうがないです。
長生きしようと思います。おばあちゃんになっても、彼は私との約束を守ってくれるような、そんな気がするのです。

5/9/2026, 2:48:34 PM