喜村

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 人からの目を気にしないで、恨みや妬みが一切ない、争いのない、愛に満ちた世界--それが私の理想郷だった。
しかし、やはり理想は理想な訳で。
 私は、空を見上げていた。
 秋の雨は、この前降った雨よりも冷たかった。
それなのに、身体の下の液体は、生暖かくて。

 痛いなぁ……。

 動きの悪い身体をなんとか腕一本だけ動かし、痛い左脇腹を触ってみる。
その手を自分の視界に入る所まで持ってきた。
 赤い、鮮血。

「なんだ、まだ生きてるの?」

 雨の音か耳なりかわからない中、そんな女の声が聞こえた。
 狭くなる視界の中に、見知った女--私の妻が映る。

「あなたとの生活は疲れたの。綺麗事ばっかりで。別れてもくれないし。だから……」

 妻の手には、包丁があった。
その切っ先は、赤く濡れている。
 私の理想郷は、綺麗事を並べただけのものだったのだろうか。
 私は、鉛のように重い腕をおろす。
 妻は、両手で包丁を構え、仰向けの私の上にまたがった。

「しんで」

 愛する妻のその声を後に、私の意識はなくなった。


【理想郷】

10/31/2023, 5:17:24 PM