sairo

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スケッチブックに線を走らせる。
目の前の光景を、その瞬間を切り取るように。スケッチブックの白に、自分だけの世界を描いていく。

「やっぱりすごいな。デッサンだけでも引き込まれそうだ」

急にかけられた言葉に驚いて、線がゆがむ。そのひとつの綻びで切り取られるはずだった世界は、ただの未完成の絵になり。音もなく閉じられたスケッチブックが、その絵が完成する日が来ない事を示していた。

「急に話しかけないで」

冷たく言い放ち、道具を片付け始める彼女にごめん、と彼は笑いその手を引き留める。

「何」
「たまには俺の事も描いてよ」

いいでしょ、と頼む彼に視線を向けず、答えも返さず。引き留める手を振り払い、乱雑に道具を鞄に詰めると立ち上がる。
彼は笑みを浮かべたまま、それ以上は何も言わない。
それが逆に気まずくなり、彼女はやはり視線を向けぬままに呟いた。

「人物画、苦手だし。夕日を描いている方が好きだから」
「そっか。残念」

さほど残念そうには見えぬ彼の視線から逃げ出すように、彼女は足早に帰宅の途についた。



人物画が苦手なんて拙い嘘を、きっと彼は見抜いているのだろう。
やるせない気持ちで唇を噛み、アトリエの扉を開ける。
大小様々なキャンバスの一番奥。棚から額装された絵を取り出した。

互いの手を取り微笑み合う男女の水彩画。
彼と、彼女の姉を描いた、唯一残した絵。
感情のままに地面に叩きつけようと振りかぶり。結局は出来ずに、再び棚に仕舞い込んだ。

何度繰り返したのか。
彼に話しかけられる度、姉の様子を伺いに行く度に激情に突き動かされるように、今まで描いてきた二人の絵を破り捨ててきた。けれどもこの最後の一枚だけは、どうしても壊す事が出来なかった。

せめて二人が結ばれてくれたのなら、諦める事も出来ただろうに。
そう思ってしまうくらいには、どうしようもなく彼女は彼に恋をしていた。
けれどそれはすでに終わってしまった恋でもあった。

数年前。彼女がまだ高校生になったばかりの頃。
最初で最後の、告白をした。
結果の分かりきっていた告白だった。彼が彼女の姉に好意を寄せていた事を、彼女は知っていた。
それでも告白をしたのは、自分の気持ちに区切りをつけるため。振られて、そこでようやく二人を心から応援する事が出来ると思っていた。

だが現実は思い描くものとは常に異なり。
姉は彼以外の男性と恋仲になって、彼は想いを告げる事すら出来なかった。
どこか悲しげに、それでも笑って姉を祝福する彼を見て、終わったはずの恋が微かな期待に彼女の胸を焦がし。事故で恋人を喪った彼女の姉が壊れてしまった事で、彼女の恋は行き場をなくしてしまった。
姉が恋人の幻影を追う限り、恋は諦める事が出来ず。彼が姉の元へ通い続ける限り、恋は期待する事も出来やしない。
ぐるぐると恋は彼女の胸の内に燻り続けて、それを見ないように彼女は人物画を描く事を止めてしまった。
それほどまでに彼女は全力で、恋をしていた。


「恋なんてするもんじゃない」

きつく手を握りしめて、噛みしめるように呟いた。
気持ち的には、指一本動かしたくないくらいに疲れ果てている。恋だの愛だのは、しばらくは見るのも聞くのも嫌だ。
何より彼に合うのが苦痛だった。

想いを振り払うように頭を振ってアトリエを出る。
リビングの机の上に無造作に置かれていた、一枚の紙が目に付いた。

留学。

恩師や両親の薦められていたが、保留にしていたそれ。壊れる前の、大好きだった姉の昔からの願い。
先に進むにはいい切っ掛けになるのかもしれない。

紙を指でなぞりながら目を閉じる。
しばらくして目を開けた彼女の心は決まっていた。

壁掛けの時計を見る。
寝るのにはまだ早いが、相手に連絡をするには少し遅い時間。
鞄の中のスケッチブックを確認する。
残り少ない枚数を確認してから、鞄の中に仕舞い込む。

「たまには朝日を描くのもいいか」

誰にでもなく呟いて、リビングの電気を消して寝室に向かう。
思いついたらすぐに行動に移せるのが、彼女の長所だ。

普段とは違う景色を思って、ベッドに横になる。
明日、朝日を描き終えたなら。
まずは両親と恩師に連絡をしよう。それから姉の所へ行こうか。
目を閉じる。暫くして訪れた睡魔に身を任せて。


久しぶりに夢も見ないほどの深い眠りに落ちていった。



20240913 『本気の恋』

9/13/2024, 8:45:38 PM