sairo

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目の前を、誰かが足早に過ぎていく。
視線を向ければ、小柄な少女が泣きながら教室に入っていくのが見えた。
何かあったのだろうか。込み上げる疑問に対する答えが思い浮かび、嘆息する。確認した訳ではないが、まず間違いないだろう。
彼女のように泣きながら、あるいは怯えながら目の前を過ぎていくのは、これで三回目だ。彼女たちの精一杯の勇気が最悪な形で返ってきたことを可哀想に思いながら、重い足を引きずるように元凶の元へと歩き出した。
賑やかな廊下を抜けていく。ぱたぱたと通り過ぎる生徒たちは皆足取り軽く、足音を立てずに歩く自分とは正反対だ。きっと表情も違うのだろうと考えて、進む足がさらに重くなった気がした。



「ねぇ。いい加減にしてって言ったよね?」

美術室で一人、絵を描く彼の背に声をかける。
答えはない。けれど絵を描くことに集中している訳ではないことは明らかだった。
ただ二回目の時のやり取りをするのが億劫なだけだろう。その証拠に、絵を描く手は先ほどからほとんど動いていない。
眉を寄せ、彼に歩み寄る。手を伸ばせば触れられる距離まで近づいて、ようやく彼は振り返った。

「いい加減にしろと言われたって、向こうから来るのが悪い」
「やり方があるって言ってんの」

不機嫌そうに言い訳をする彼は、普段とは違いどこか幼い。目を合わせようとしない彼に溜息を吐いて、その背後のイーゼルに掛けられた絵に視線を向けた。
怪しく微笑むビスクドール。ただの絵だと理解していても、人形の纏う悪意に飲まれてしまいそうだ。

「あの子の怖がっているものは人形か……随分と精密に描かれているから、実際にある人形なのかな」
「知らない。興味もない」
「描いた本人が何を言ってんの」

こちらに背を向けキャンバスに向かう彼は、完全に拗ねてしまったようだ。絵に触れ、軽く爪を立てる。
その途端、絵がどろりと溶け出し、キャンバスに染み込むように消えていく。まるで最初から何も描かれていないとでもいうかのように。

「相変わらず、変な特技だねぇ」
「変って言うな。あと、特技とかじゃない」

いつ見ても不思議な光景だ。思わず呟けば、幾分か低い声に否定された。
キャンバスを見た人の、一番怖いものを描き出す。いつからか、彼はそういった絵を描くことが多くなった。
彼の周囲に人が集まるようになったからだろうか。不愛想で幼いけれど、彼を好きになる人は案外多い。
もっとも、彼と付き合えた人はまだ誰もいないが。勇気を出して告白しても、先ほど見かけた少女のように目の前で一番怖いものを描かれて逃げてしまう人ばかりだ。

「皆、怖がりだな。人形とかよく分からない化け物とか……何が怖いんだか」

心底不思議だと言わんばかりの声音。何度も人の恐怖を描いていても、彼には分からないものらしい。
何も言えずにただ見ていると、真っ白になったキャンバスを前に、彼は手を離して筆を取る。
絵の具の匂いが鼻を掠める。キャンバスの白が、黒に塗り潰されていく。
その迷いのなさに、息を呑んだ。絵の具の黒が容赦なく白を殺し、やがてキャンバスは黒に染め上げられてしまった。

「――まだ、黒だけか」

かたり、と筆を置く音がやけに大きく響く。
感情が抜け落ちたかのような、冷たい声音。思わず肩が震え、一歩足が後ろに下がる。

「形として描かないと意味がないのに」

ゆっくりと彼が振り返る。
まるで人形の目だ。キャンバスのような底知れない黒い目。射すくめられ、途端に動けなくなってしまう。

「なぁ」

腕を掴まれ、開いた距離を縮められる。

「もっと、形のある怖いものがあるだろ?それを俺に晒して。形さえあれば、すぐに見つけることができるんだ」

至近距離で見つめ合っているというのに、彼の目の中に自分の姿は見えない。今の自分の姿が見えるのは彼だけだ。

「じゃないと、いつまでも仲直りができない……いくらでも謝るから、だから迎えにいかせて」

見えない自分の姿の代わりに、脳裏を懐かしい記憶が過ぎていく。
幼い頃、一緒に彼の家の倉の中でよく遊んだ。本を読み、ままごとをし、お絵かきをし、たくさん話し合った。
いつも笑っていた。喧嘩らしい喧嘩もなく、いつも一緒だった。
あの日、何が原因で喧嘩になったのか覚えていない。
ただとても悲しくて、痛くて、許せないと思った。
二度と遊ばない。口も聞きたくない。そう言って、彼に背を向けたことは覚えている。
その後は――真っ黒だ。

気づけば楽しげに遊ぶ自分たちの姿は消え、キャンバスと対峙していた。
底が見えないほどの深い黒を無言で見つめていると、不意に中心から波紋が広がった。
水面のように何度も波紋が揺らぎ、やがて中心に何かが浮かび上がる。

「っ……」

小さなそれは、子供の手。助けを求めるかのように伸ばされた手は、キャンバスを突き抜け大きく開かれる。
それまで立ち尽くしていた体は慌てたようにその手を掴もうと動き出すが、手は捕まえることができずにすり抜けた。悲しげに揺れる手が、再びキャンバスの中へ沈んでいく。やがて何も見えなくなると、キャンバスは大きく揺らいで、彼の目に変わった。

「どうした?」

不安と期待を色濃く宿した目を見つめながら、無言で首を振る。俯き、掴まれた腕を解こうとするが、逆に痛みを覚えるほど強く掴まれてしまった。

「行かないで」

声を震わせ、彼は懇願する。

「お願いだから、一人にしないで」

声だけでなく、掴まれた腕から彼が震えているのが伝わる。
昔から彼は怖がりだ。周りに人が集まるようになった今でも、置いていかれることを怖がっている。
あの時、彼はどんな顔をしていたのだろうか。ふと疑問に思う。一日の終わりにさよならをする時にすら泣いて嫌がっていた彼は、背を向けて去っていこうとする自分をどう思ったのか。

「必ず見つけるから。だからここにいて」

彼は何度も自分を見つけると繰り返す。
あの日を最後に、自分は行方不明になっているという。ならば今ここにいる自分は何なのだろうか。
彼には自分の姿はどのように見えているのだろうか。

「分かってる。ちゃんとここにいるよ」

けれど浮かぶ疑問を何一つ口にせず、代わりに彼の望む言葉を囁いた。
密かに自嘲する。
何も言えない自分はきっと、彼以上に怖がりなのだろう。



20260316 『怖がり』

3/17/2026, 10:24:34 AM