※昨日書いた話との繋がり有りなので、お手数ですがそちらに記載してあります注意事項をお読みになって頂き、大丈夫そうであれば是非こちらもお読み頂ければと思います。特技は地獄を作ることと地雷原を作ることです、よろしくお願いします。
久しぶりに、幼い娘と二人で遠方へドライブに向かった。遠方とは言っても、車で片道二、三時間程度の場所ではあるが。狭い世界で生きている······いや、生かされているこの娘にとっては、その程度の遠出すら珍しいものらしく、また、特別なイベントの一種であるようだった。早朝、娘の現在の居住地の前へ車を停車させた途端、待ってましたとばかりに何が入っているのかよくわからない小さなリュックを背負い、水筒を肩から斜めに掛けた娘が玄関から飛び出してきたのを見て、あまりの気合いの入りように思わず小さな笑いが零れてしまった。
娘は先日の誕生日で八歳になった。まさに育ち盛りな年頃だというのに、その成長を毎日傍で見守ることが出来ない現状が歯痒くて仕方がない。
それには深い訳があり、有り体な言葉で済ますとするならば所謂「家庭環境の問題」という奴だ。更に詳しく付け加えるならば、娘の母親に当たる人物とは既に離婚が成立しており、娘の親権を母親が獲得したから、といった理由になる。
当時の私は恥ずかしいことに、仕事こそきちんとこなしてはいたが、職場で溜まったストレスを妻にぶつけることでしか生きていけない情けない人間だった。溜まるストレス、増える煙草。時には妻に手を上げたことすらあった。
そんな駄目な夫だったが、娘のことは心の底から愛していたし、なるべくそういった「悪い父親」の側面を娘の前では見せないよう努めていた。妻に対しての感情は、もうよくわからなかった。妻も妻でそれなりに気の強い女で、ただやられてばかりで泣き寝入りするような人間性ではない。本人はバレていないと思っていたのか、それともバレたところでどうでもいいと思っていたのかは知らないが、いつ頃からか他所で他の男と遊び始めたことに私は気付いていた。気付いていたが、あえてそれを指摘するようなことはしなかった。だって、もうどうでもよかったから。
かくして「離婚」というものが現実味を帯びてきた頃、妻が出掛けている時に私は娘の前でしゃがんで、目を合わせ、聞いたのだ。
「百合は、お母さんのこと好きか?」
「? うん! 好きだよ!」
「じゃあ······お父さんのことは、どうだ?」
「お父さんも好き! もーっと好き!」
「もっ、と······?」
まさかそのような回答を返されるとは思いもしていなかったので、俺は事態を飲み込めずにポカン、と大口を開けて呆けた顔をしてしまった。
すると、娘は······百合は、こう続けたのだ。
「んっとね、ケンカしてるときの二人は、あんまり好きじゃないの。でもそれ以外の時は好き! お父さんもお母さんもやさしいから! でもお母さんはたまにね? こわいお顔で私のこと見てくる時があるの。お父さんはそんなことなくって、いーっつもやさしいから、だからもーっと好き!」
「そう、か······そうだったんだな······」
百合の言葉に衝撃を受け、鈍器で頭を殴られたような心地になりながら、必死で目の前の愛しい娘を掻き抱いた。涙が幾筋か、頬を伝った。
「ごめん、ごめんなぁ······お父さん、気付いてあげられなくて······本当に、悪かった······!」
「お父さん? どうしたの? 何であやまってるのー? ねえ、お父さんってばー!」
娘が私の背中を両手でポコポコと叩いてくる。とても、とてもか弱い力だった。か弱くて、無知で、無力な、守らなければならない私の娘。そう、再確認したのだ。
だから勿論、親権については元妻と争った。しかし、私が妻に暴力を振るっていたこと、そして妻が浮気をしていたという決定的な証拠がなかったことにより、私は百合の親権を獲得することが出来なかった。自業自得だ。そう割り切ろうと思ったが、そんなこと到底無理な話だった。だから私は元妻に頭を下げ、一ヶ月に一度でいいから百合と会うことを許してほしい、と懇願した。元妻は何の躊躇いもなくすんなり了承した。思えば、元妻はあの時には既に百合への関心を何もかも失っていたのかもしれない。それなのに親権は譲らず、こちらに養育費の支払いを要求し、シングルマザーとして生きていこうとしていたのだ、あの女は。
しっかりと百合の面倒を見、真っ当に育てていってくれるのならば私だってきっと納得した。なのにあの女は、その責任すら放棄した。いつのことだったか、百合と会った時に学校の話を振ったことがあった。楽しいか? 友達とは上手くやれているか? 確か、そんなようなことを聞いたのだったと思う。それに対する百合の答えに、私は驚愕するしかなかった。
「あのね、学校には行ってないの。お母さんがね、行かなくていい、って。お母さんがおしごとに行ってるあいだ、家をまもるのがゆりのしごとだよ、って」
だから私、まいにちおうちをまもってるの!
······そう、屈託無く笑ったのだ、百合は。それが当然のことだとでも言うように。正しいことをしているのだと誇るかのように。
なんて、なんて可哀想な子なのかと。百合をこんな目に遭わせている神を恨み、自分を恨み、元妻を恨んだ。
比べる対象が居ないのだから、百合が自身で自身の置かれている状況が異常なものだと気付くことは出来ないだろう。そして何より、この子はとても素直な子なのだ。素直すぎて、無垢すぎる。それだから、母親から言われたことに対して疑問を持つことなどない。全て母親の言いつけ通りに行動するのだろう。そうやって、この先も生き続けていくのだろう。
ああ、やっぱり。
哀れで、痛ましくて、可哀想が過ぎる。本人には何の自覚も無く、この世界の誰よりも幸せだとでも言うかのような顔で笑っているのだ。今置かれている状況が世界の全てだと信じきって、自分が「可哀想」なのだということもわからずに。ただ、ただ、笑う。笑っている。ずっと、ずっと。
······そんな娘を見るのは、もう限界だった。
「帰りはちょっと遠回りしてみたけど、あそこなんて良さそうじゃないか? 百合も気に入りそうだ」
「············」
「······ハハッ。ぐっすり寝てるな。きっと疲れたもんな?」
「············」
「お父さんもな、百合。······もう、疲れたんだ」
「············」
「だからさ、百合。一人で寝てないで、お父さんと二人で一緒に寝よう? 誰にも邪魔されないように、いつまでも······いつまでも······」
河川敷横の道路を走る、その車中。
私は、助手席で死んだように眠る百合の顔をこれでもかと目に焼き付けて。
──川を目指してガードレールの方へと思いっきりハンドルを切り、アクセルを全力で踏み抜いた。
1/6/2025, 1:51:05 PM