仙台駅から新幹線で実家に戻ろうとしたが、弟が機嫌を損ねて泣き出した。当時保育園児の彼はよく泣く子だった。またいつもの発作だろうと、母と一緒に遠くで弟を眺めていた。急に家族と離れてしまったら、彼が驚いて泣き止むだろうと思っていたのだ。
駅構内の通路の真ん中で泣き喚く弟に、通りすがりの人が声をかけた。
「どうしたの、迷子? 家族の人はどこかな?」
その人が言い切る前に、私たちは慌てて弟の元に駆け寄り、お礼や言い訳を残して3人で逃げ去った。後から母がこう言っていった。
「東京よりも仙台の人の歩きの方がゆっくりだ。迷子なんてすぐ見つけられる」
確かに同じ都会でも、東京を歩く人の足は早い。もし弟が東京駅で泣き出したら、果たして立ち止まってくれる人はいるだろうか。むしろ向こうが、広大な駅に困り果てて、乗り換えに間に合わず泣いていそうだ。都会を走る電車やバスが多い分、早く乗らねば損をするという思い込みが、その足の早さの要因だろう。自然の移り変わりも都会の方が早いかもしれない。
今朝降った大雪さえも、昼間から顔を覗かせた太陽の光であっという間に溶けてしまった。今日一日で冬と春を同時に体験した気分だ。私としては、積もった雪をあと一週間ぐらいは見ていたかった。
どうも都会の景色は、銀世界を嫌がるらしい。至る所に生えている高層ビルが、何よりの銀世界だからそれ以外いらないのだろう。風情も人情もない所に、自然がとどまることはありえない。光の速さで生きていけない生き物はすぐに死ぬ。そこで立ち止まって泣いていたら、眩しすぎる光に熱されて跡形もなく消えてしまうだろう。
たとえ、仕事の帰り道で雪解け水に滴る桃の花とカラスの美しさに気付いても、自転車で素通りしてしまう。この都会に、立ち止まってゆっくりと景色を眺める時間は、いったいどこにあるのだろうか。
(250319 どこ?)
3/19/2025, 12:43:51 PM