紅月 琥珀

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 朝目が覚めると、私は誰もいない世界にいた。
 昨日までの喧騒が嘘のように―――しん、と静かな世界に私一人が存在している。
 寝室からリビングに行っても誰もいなくて、でも⋯⋯不思議な事に音もなくフライパンは熱され、美味しそうなベーコンを焼いていた。
 テーブルには朝食が並べられて、やはり音もなくお皿に乗っている朝食達は減っていく。
 その光景はまるで、私には見えない何かがそこにいて、いつもと変わらない生活を送っているように見えた。
 そうこうしているうちに、私のいつも座っている席に朝食が並べられていく。
 少し怖かったが、私は席につくといただきますと挨拶してからご飯を食べた。
 警戒した割には何ごともなく、ただ美味しい朝食でホッとする。けれど、音は一切しなくて⋯⋯そこだけ違和感を感じた。

 それから支度して、一応学校まで行ってみたけど通学路も学校内も、誰もいなくて音もしない。ただ、私だけがぽつんと存在している異様な光景があるだけ。
 そんな中で、周りに違いがないかと観察していると、ある事に気づく。
 姿は見えないのに、何故か影だけは動いているのだ。壁や床にうつる影は誰かと楽しそうに話していたり、席に座って読書をしたりと思い思いに動いている。

 授業の時も黒板に文字が浮き出てくる様に見えていたが、よくよく見ると影が何かを描いているように動いていた。
 何が原因か分からないけれど、どうやら私は影の世界に来てしまったみたいで、どうやって来て、どうしたら帰れるのかさっぱり分からない。
 それでも授業はちゃんと受けて、放課後から何とか元の世界に帰る方法を探してみる。

 色んな場所に影達が犇(ひし)めいているが、そのどれもが私に無関心で各々自分のやりたい事をしながら放課後を過ごしていた。
 そうして学校内を歩きながら、何か違和感は無いかと探している時だった。
“―――ンパイ”って何処かから声がしたような気がして、耳を澄ませる。
『センパイ』
 今度はハッキリ聞こえて、私はなんとか声のする方を割り出そうと更に耳を澄ました。
『センパイ!』
 その声のする方へ私は走る。何度も何度もセンパイって呼ぶ声を頼りに走り、辿り着いたのはある階段の踊り場。そこに飾ってあった鏡からだった。
 私が鏡を覗くと、声はするもののその人の姿はなく⋯⋯ただセンパイと呼び続ける声が聞こえるだけ。
 試しに鏡に触れてみるが、ひんやりとした感触が手に伝わるだけで⋯⋯ここから出られる気配はない。

 それから暫くすると、足音がこちらに近付いてきて、遂にその人の姿が鏡にうつる。聞こえていた声からもしかしてと思っていたけど、部活の後輩が誰かを探しているようだった。
 それを他人事の様にぼーっと眺めていた。
 鏡越しの彼が私に気付くこともなく、ただ必死に誰かを探している姿がうつるだけ。
 それでも⋯⋯この無音の影の世界で、唯一聞こえた君の声に―――酷く安心してしまって今まで麻痺していた心に熱が灯るのを感じる。

 そうして堪えられなくなって、視界が歪む中で君に届けと願いながら彼の名を叫んだ。
 一瞬だけ立ち止まって辺りを見回して、センパイ、どこですかって言いながら探す姿にこちらの姿が見えていないのだと、少し肩を落としたけど⋯⋯声は届いたかもしれないって思ったらちょっとだけ希望が持てた。
『私は此処だよ。お願い⋯⋯見つけて―――』
 鏡越しに聞こえる君の声を聞きながら、私は静かに涙を流しそう呟いた。

2/15/2025, 2:57:33 PM