〈タイムマシーン〉
彼女が亡くなったという知らせは、昼休みの会社に届いた。
何かの冗談かと思ったが、高校の同級生、大学のゼミ仲間双方からほぼ同時に来た。
スマートフォンの画面に並んだ簡潔な文面を、何度も読み返す。文字は理解できるのに、意味だけがわからない。
高校時代から、ずっと好きだった人だ。
同じクラスで、窓際の席に座っていた彼女。誰かの話を聞くとき、少し首を傾ける癖があった。
好きな本も、歌手も同じ。考え方も似ている。何かと一緒に行動することも多い。
お互い、好きだったんじゃないか──そんな確信めいた瞬間がいくつもあった。
俺はそのたび、本心を告げようとして、結局できなかった。
大学も同じ学部同じゼミで距離は縮まったのに、決定的な一歩は踏み出せなかった。何か、近寄りがたい雰囲気を醸し出していたからだ。
いくつか年上のエリートとつきあっている、という噂も耳にした。
就職後の同窓会で再会したとき、彼女の左手に指輪が光っていて、すべてが終わったのだと思った。
結婚生活は、うまくいかなかったらしい。
モラハラ、暴力、支配。離婚後、彼女は心を病み、そして自ら──
葬儀へ向かう途中、雨の中で拾ったタクシー。
乗り込んだ瞬間、妙な違和感を覚えた。ダッシュボードの上に、小さな黒猫の置物があった。艶のない陶器で、琥珀色の目だけが妙に生き生きしている。
ミラー越しに、運転手の視線が合った。
その瞳の奥が、猫の目のように一瞬だけ光った気がした。
「お客さん。本当に行きたいところは?」
勝手に口が動き、願望が溢れ出る。
「……高校時代かな」
次の瞬間、景色が歪んだ。
****
──気づいたら高校の制服を着て、正門の前に立っていた。
これまでの記憶は残っている。それを活かして、彼女を救うことができるのでは……
あのとき、逃した好機(チャンス)をものにできたら。少なくとも、彼女が自ら命を断つことなどなくせたら。
この状況に戸惑うこともなく、俺はこの「世界」を攻略する。
そして、何度も人生をやり直した。
高校、大学、社会人。選ぶ言葉を変え、選ばなかった未来を拾い上げた。失敗すれば、必ずあのタクシーが現れ、ダッシュボードの黒猫が過去に導いてくれる。
喧嘩別れもした。すれ違いもあった。
それでもやり直しを重ね、ついに彼女と結婚し、歳を重ねた。
七十を過ぎたころ、俺たちは並んで歩く速度が同じになった。すっかり白髪が増え背が丸まった彼女の歩幅は小さく、俺は自然と半歩後ろを歩いた。
穏やかで、静かな日々だった。少なくとも、俺はそう信じていた。
ある夕暮れ、あのタクシーが目の前に停まった。
あの黒猫の置物が、フロントガラス越しに見えた。
──何故? この「世界」は完璧なはずなのに?
戸惑う俺を残し、彼女がタクシーに近づく。
彼女は何も言わなかった。
ただ一度だけ俺を見て、微笑むでもなく、後部座席に乗り込んだ。
ドアに手をかける俺を制するように、運転手が言った。
「お客さん、おわかりになりましたか?
この人もね、この車のお得意さんなんですよ」
それだけだった。
タクシーは静かに走り去っていく。俺は追いかけることもできず、立ち尽くしていた。
俺は俺の都合で彼女を縛りつけていたのか?
足元で、黒猫がすり寄った気がした。
──俺の思考で凝り固まった世界が、ほどけていく。
****
目を覚ますと、俺は自分の部屋にいた。
夢だったのかもしれない。
けれど、胸の奥に残った記憶の苦みは確かだった。
スマホを見る。彼女の死の前日。時計は、彼女が命を断つ前の時刻を指している。
──考える前に、身体が動いた。
俺は彼女のもとへ向かう。
過去を修正しようとは思わなかった。人生を奪い取ろうとも思わなかった。
ただ、彼女に伝えなければいけない言葉がある。
彼女の住む部屋の前に立ち、インターホンを鳴らす。
ドアを開けた彼女の顔はやつれ、生気を失った瞳が俺を見上げた。
「──生きてくれ」
理由は言わなかった。言わずとも伝わるはずだ。
彼女は何も答えなかった。ただ、俺を見つめる瞳から一筋の涙が頬を伝う。
しばらくした後、小さく唇が動く。
「ありがとう」
絞り出されるような声を聞き、俺は部屋を後にした。
帰り道、夕暮れの道端。黒猫が一匹、こちらを見上げていた。
琥珀色の目が一瞬だけ光り、小さく鳴く。
──ニャア。
それを合図にするように、猫は闇の中へ溶けていった。
俺の前に、「タイムマシーン」はもう現れない。必要ならば、彼女の前に現れるだろう。
それでいい、と俺は思った。
──────
SF(少し不思議)なお話です。「この世界は」と同じ黒猫モチーフ。シリーズ化したら面白いかもね。
1/23/2026, 6:06:10 AM