気が付けば、真っ暗闇の中。
足は動かず、口には何かを詰められている。
手の感覚はなく、身じろぐと金属の擦れる音がする。
悪意が街を静かに飲み込んでいたこのご時世、
一人で夜道を歩いたのは、流石に自殺行為だったか。
誘拐、監禁。これからどうなるんだろう。
漠然とした恐怖と、
非日常に対する微かな興奮を覚えた。
何処かで、この時を。
日常が覆される瞬間を待っていたのかもしれない。
どのくらい経ったのだろうか。
何時間か、何日か、あるいは数分だったのかも。
唯一不自由ない聴覚が、足音を拾った。
口に入れられていた何かを外される。
それに次いで生暖かい物を入れられた。
咄嗟に歯を食いしばり、異物の侵入を防ぐ。
しかし決して急かさず、
緩慢な動きでそれは静かに入ってきた。
気付けば口を開け、自らそれを受け入れてしまった。
初めは味なんて感じられなかった。
それが食べ物かすら分からなかった。
でももう一口、二口と入れられる内に、
それが温かい食べ物だと理解した。
美味しい。シチューだろうか。
味付けは口馴染みの無いものだったが、
今までに食べた何よりも美味しかった。
唐突に、人間の声。それも若い人間だ。
恐らくシチューをくれた人、そして監禁の犯人。
何か発している。だが日本語じゃない。
日本人じゃなかったのか。英語なんて分からないぞ。
ただでさえ感じていた不安が、
言語の壁により膨れ上がった。
これから何をされるのだろうか。
このシチューは安全な物だったのだろうか。
初めての温かいご飯というものに、
自然と恐怖心が解けていたことに気付く。
あまりにも無用心な自分に呆れと怒りを感じた。
思わず身体が震え出す。歯がガチガチと鳴る。
腹の底から不快感と吐き気を催した。不可抗力だ。
目隠しを外された。眩しさに慣れない目が潤む。
正面に座り込む人間は、頬を染めて口を開いた。
「─────cute!」
流石に理解した。自分は愛でられているのだと。
もちろん理解だけ。納得などしていないし出来ない。
これがおかしな事なのはわかっている、つもりだ。
でも、この人が慈しむように見つめてくるから。
優しく壊れないように頭を撫でてくれるから。
何故かその手を、憎めなくて。拒めなくて。
混乱してつい溢れた涙を、掬いあげてくれた。
涙に気付いてくれたのも、この人だけだった。
この先日常に戻れなくても、
自分の事を覚えている人間は居ないだろう。
消えたことに気付いてくれる様な関係は、
築いてこなかったから。築けなかったから。
無意識に夜道を歩くくらいには、
自暴自棄になっていたんだと今になって思う。
誰かに作ってもらった温かいご飯も、
甲斐甲斐しく世話をしてくれる優しい手付きも。
振り払おうとも思えないほど、心地よく。
今までの人生で触れたことの無いもので。
それを惜しげも無く与えてくれたのが、
少し人道を踏み外しているこの人だったってだけで。
皆が得ている愛情を、正しくなくとも恵んでくれる。
それが如何に間違っていようと、自分たちの全てなら、
それだけで、もう良いような気がした。
心の何かが吹っ切れたみたいだ。
肩より先は存在しなかったし、
足の腱は恐らく切られている。
視界に入れると鋭い痛みが主張を強めた。
骨を突き刺すような、身体を震わせるような痛み。
呼吸も浅くなり、縮こまる事しか出来ない無力感。
その時、包み込むように背中に回されたそれは、
何処かで常に求めていた安心感と温もり、充足感。
身を裂くような激しい痛みを、いとも簡単に和らげた。
もちろん、この傷を付けた張本人だと理解している。
それでも不満を抱けないのは、憎悪出来ないのは、
きっとこの先の監禁生活に、手足が必要ないから。
誰よりも愛してくれる人が、もう見つかったから。
親にすら貰ったことの無い、
しかしずっと欲しかった、この深い愛情を。
倫理を超えた、許されざる愛情を。
受け取る為の代償だったのなら、
独り占めする為の対価だったのなら。
この貧相な手足など、未来のない将来など、
あまりにも安く済んだものだ。
そう思ってしまうくらいには、絆されてしまった様だ。
2/27/2025, 11:13:50 PM