25.『終わり、そして始まる』『透明』『君を探して』
ある晴れた日の事。
私は、五歳になる息子と一緒に絵本を読んでいた。
と言っても読み聞かせをしているわけじゃない。
二人で静かに絵本を見ているだけ。
それも同じページをずっとだ。
癇癪持ちの息子も、目を皿の様にして見ていた。
私たちが見ている本の題名は『ウォーリーを探せ』。
幼児向けの絵本で、人ごみの中からウォーリーを探して遊ぶ絵本だ。
これがなかなか難しい。
ご存じの通り、ウォーリーは赤と白の縞模様という特徴的な服を着ている。
何も知らない人は『子供むけだし、そんな変な服の奴はすぐに見つけられるだろう』と思うだろう。
かくいう昔は私もそう思っていた。
だがページを開いた瞬間、その認識はすぐに誤りだと気づく。
目に飛び込んでくるのは、びっしりと書き込まれた人、人、人。
しかも数えるのが億劫なほど人間がいるのに、それなりに書き分けも出来ている事に、私は脱帽するしかない。
そんな酔いそうなほど多くの人間がいる中から、たった一人の人間を探し出すのがこの絵本の目的である。
ハッキリ言って根気のいる作業なのだが、その分見つけた時のカタルシスは心地よい。
世界で売れるのも、納得の完成度だ。
息子も例に漏れずこの本が大好きで、私もしばしばウォーリー探しに付き合わされている。
一人で遊ぶのが大好きな息子が、唯一誘ってくれる遊び。
私はできるだけ一緒にいるようにしている。
一緒に遊べると分かった時の、息子の笑顔。
ご飯三杯はいけるね
が、今回受け入れたことを少しだけ後悔していた。
別に飽きたわけじゃない。
なんなら何時間でも付き合おう。
でも今は、今だけは、ウォーリーを探したくはなかった。
なぜなら私は今、猛烈にトイレに行きたいからだ……
私の膀胱が、これでもかと存在を主張している。
決壊の時は近い。
別に、トイレに行きたくなってしまうのは今回に限ったことじゃない。
尿意があっても、堤防が決裂する前にウォーリーを見つけてしまえばいい。
それだけのことだ。
けれど今日はウォーリーがなぜか見つからない。
いつもは10分、長くても20分で見つけられるのに、今回は1時間かかっている。
透明になったわけでもあるまいし、いったいどこにいるのやら。
もしかして、今回難易度高い奴か!?
子供向けと見くびっておったわ。
「うーん、見つからない。
どうしよう……」
ふと息子が弱音を吐く。
ウォーリーを探す間は、微動だにしない息子が弱気になっている
これは中止の流れか……?
やった!
トイレに行ける!
早速中止の催促を……
――待てよ。
ここで諦めるのは、息子の情操教育に良くないかもしれない。
ウォーリーを見つけること上手いのが自慢の息子。
ここで諦めてしまえば、このことが原因でトラウマになってしまうかもしれない。
そしてトラウマが原因で、人生を悲観し、そしてグレて……
これはいけない!
私の可愛い息子がグレるなんて断じてあってはならない。
息子の将来のため、ここは踏ん張って――
待て待て、さすがに話が飛躍しすぎている。
グレるのは、もっと複合的な原因があるはずだ。
いくら何でもウォーリーが見つからなかったからと言って、グレる事は無いはずだ、多分。
どうやらトイレの我慢のし過ぎで、正常な判断が出来なくなっているようだ。
危ない危ない。
どっちかと言えば、自分の目の前で母親が漏らす方がよっぽどトラウマであろう。
だから今回に限りトイレを優先してもいいはずだ。
ああ、でも……
多分、息子は泣くだろうな。
ウォーリーを探せに人生を懸けているんだもんな、五歳の癖に。
見たくないなあ、泣いている所。
私まで泣きたくなっちゃうもの……
ええい、こうなったら私が見つければいいのだ。
そうすれば息子も泣かなくて済むし、私もトイレに行ける。
よーし気合を入れて頑張るぞ!
でもダメかもしれない。
尿意に気が取られ、全く集中できぬ。
段々視界も霞んできたぞ。
息子よ、お母さんはもうダメだ。
後は頼む。
ああ、我慢のし過ぎで幻覚まで見えてきた。
建物の影に隠れてウォーリーが、私を見て笑っている。
なぜ君は笑っているんだい?
君を探して大変な事になっているというのに、そんなに笑わなくたって――
……ん?
「ここだー!!!」
私は思わず叫ぶ。
そして指の先には赤と白の縞模様の服を着た男性――ウォーリーがいた。
「ママ、すごーい」
息子が小さな手でパチパチと拍手する。
やった、やったぞ。
ようやく見つけた。
私を苦しめるとはなかなか腕前であった。
だが私が本気を出せばこんなものだ
ではトイレに行かせてもらうか。
「じゃあ、お母さんトイレに――」
「じゃあ次ね」
「次……だと……」
私は息子の発言に言葉を失う。
そんな、ウォーリーは見つかったのに!?
驚愕している私を尻目に、息子は次のページをめくっている
終わり、そして始まる。
ようやく長い戦い終わったと思ったら、全然終わりじゃなかった。
育児あるあるであった……
「はは、ははは」
「おかあさん、どうしたの?」
私の乾いた笑いを聞いて、息子はぎょっとした顔をしている。
何かしらフォローをすべきかもしれないが、今の私には余裕がない。
限界寸前の膀胱を刺激しないように、ゆっくりと息子の方に振り向く。
「トイレに行こう」
「え?
でもウォーリーを探さないと……」
「うん、だから――」
私は息子の目をまっすぐ見て言った。
「――ウォーリーは、トイレにいる」
3/17/2025, 11:00:46 AM