誰よりも、ずっと
脇役に生まれた。
はっと息を呑むけれど、それはもう私の知っている空気ではない。
朝起きて、顔を洗い、ふと鏡を見て、周囲の違和感を実感するのには遅くはなかった出来事だった。
既にここは、小説の中の別世界であると。
「これは……一体」
冷たい地面を歩き、何度か体を確認する。
細い腕に、乾燥した肌、胸は、あるか。ただの女だ。
周囲を見渡してみると、ベッドにタンスだけの質素な家具のみが置かれている。どうやらこの部屋の持ち主は小さな木製の小屋のような部屋に住んでいるらしい。年季が入っているのか歩くたびに床の軋む音が鳴る。
「とりあえず、落ち着こう」
まず、ここは小説の中の世界。題名は忘れてしまったけれど、確か随分前に読んだ本の内容はこうだ。
主人公は生まれつき目が悪く、村の住人達は偏った知識に溺れ、彼を悪魔だと非難した。
小さい頃から村八分に近い環境で育った彼は、段々と心が壊れていき、どんな時でもずっと笑うようになる。
けれど、唯一ヒロインの彼女だけは主人公の彼に無償の愛を分け与えた。
幸せな日々も続かず、ついにあの日がやってくる。
村人達の勝手な妄想で父親が殺された際に、父の骨を蹴ったことをきっかけで彼の堪忍袋の緒が切れ、村の住人が一人残らず惨殺してしまうという物語だ。
唯一、主人公が見逃したヒロインの存在。
それがこの村の惨殺を止める重要な役割となる。
けれど……
一通り記憶の中を整理して、私は頭を捻らせる。
なのに、なんで留まってるんですかね、あなた。
村人は殺さず、村を出ない。その決断をした彼に視線を向ける。昔とは比べ物にならないほど背が伸びて、それでも常に口角を吊り上げている彼の横顔を見た。理由もなく死にたいだなんて思わないし、私としてはありがたいのだけれど本当にこれでよかったのかという気持ちが残る。
もちろんあの後すぐにヒロインがやってきて、私と(無理やり連れてきた)彼は仲良くなったのだが、ヒロインと主人公の彼が結ばれることはなく、今もこうして私の家に訪れては暇そうにじっと窓を眺めているという現状。
「見えないのに窓の位置が分かるの?」
「風を感じてるんだよ」
「閉まってるけど」
「なんていうのかな……鼻?五感がいいんだ」
魔法で見えているくせに。そう悪態をついてしまいたいという気持ちを抑える。作中でも彼が魔法を使えるというのはヒロインのみに明かしていた秘密だ。一番君を信頼している、とか軽々しく言いながら私には魔法のことを話してくれないということは、つまり私を本当には信頼していないということなんだろう。横にいるのは歴とした殺人犯。前科はないが仮にも殺人を犯す覚悟のある奴だから、奴の機嫌を損なわないよう、人一倍気を使っているつもりだ。
「おまえが嫌いだ」
「僕は好きだよ」
軽く彼は微笑して、それを見た私の眉が険しくなる。
「もう少しここに居てもいい?」
揶揄っているのか?私が断れないことを知っているのに。
「好きにして」
諦め気味に発した言葉を最後に、私は止めていた手を進めた。途中で途切れてしまった文字を上からなぞりながら文章を組み立てていく。
「僕の目と君の目を交換しない?」
「いや……ごめん、本当に。今のは忘れて」
彼はぎゅうっと体を丸めて顔を覆った。ダンゴムシみたいと言っても返事は返ってこない。
「本当に口足らずだよね、君」
どういうこと?と私が言うと、彼は椅子に座り、珍しく真剣な顔をしながら一から説明し始めた。
どうやら、彼は私を想像以上に気に入っていたらしい。今の意味の分からない台詞も、君とお揃いのものがあれば嬉しい、というペアルックという意味だったようだ。
「全部、君のせいだよ」
次の言葉にはだって、が入ってきそうなほど、物言いたげに下を俯く。
十分満足した後、彼はこちらの目をじっと捉えた。
「君が欲しい」
と、彼が聞く。
私が?思わず笑ってしまいそうになったけれど、一歩も動かずに視線をこちらにやる姿からは冗談には見えなかった。
「何が欲しいの?」
「全部」
「何が欲しい?」
「ちょっと、」
彼が身を乗り出して、私の方に近づいた。自然と彼が私を見下ろす形になってしまい、私は首を少し上に向ける。
君が望むものは全て用意すると、私の返事も聞かずにと淡々と告げた。
「僕から離れないでね」
カチッという音と共に、手に何かを付けられた。
これが、運命を変えた代償なんだろう。
多分私はこの世界も、こいつからもから逃れることはできない。
「君を愛してる」
「誰よりも、ずっと」
『幸せにするよ』という悪魔の囁き声が耳に届いた。
4/9/2024, 5:54:58 PM