sairo

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気づいた時には、すでに言葉は失われていた。
元から存在しなかったのかもしれない。永く形が定まらなかった自分には、言葉を介す相手などはいなかったのだから。


「――神様、どうか」

声が聞こえたのはいつだったか。
まだ幼さの残る声だった。山に向けて真剣に祈りを捧げていた。

「あの子が道に迷わず、向かうべき場所に辿り着くことができますように。新たな始まりの先では、少しでも長く人生を楽しむことができますように」

その手には小さな人形が握られている。幼い子供が喜ぶような、そんな可愛らしい人形だった。

「神様……」

失ったのか。
鎮魂の祈りの理由を察し、ざわと草花が微かに揺れた。
せめてもの手向けとして花を散らす。降り注ぐ花弁が、周囲を色鮮やかに染めていく。

不意に、祈りの言葉が止んだ。

顔を上げた幼さの抜けきらない子。ゆっくりと目を瞬いて、此方を見据え口を開く。

「――神様?」

その言葉一つで、自分の一部が形を持った。ひらりと翅を震わせ飛びながら、そっと差し出された指先に止まる。

「神様って、思っていたよりもずっと小さいのね」

泣き腫らした赤い目を細め、子は笑う。祈りの言葉を呟きながら、一筋熱い滴を溢した。

「あの子はずっと、笑ってくれていたの。最後に大好きだって伝えてくれたから、私はこれからも大好きだって歌うわ」

叫んでも届かない所にいくのだろうけれど、気まぐれな風が歌を運んでくれることもあるから。
喪に服しても前を見続ける、そんな強い目をして子は歌っていた。



それから、子は毎日のように自分の元へと足を運び続けた。

「神様、見て。育てた花が咲いたの。あの子が好きだった花よ」

差し出された花に止まる。言葉の代わりに翅をゆっくりと震わせれば、ふふと笑い声が漏れた。
その目はもう赤く腫れてはいない。けれどその理由は、決して忘れたからではないことを知っている。

「神様。あの子の道案内をしてくれてありがとう。次の生は迷わないといいのだけれど」

ある魂の道案内をした時の光景を夢で見せた。それは祈り続けていた子の側を離れようとしなかった、とても小さな魂だった。

「本当にありがとう。大好きよ、神様」

柔らかな旋律が響く。慈しみに満ちた優しい歌。
夢を見せた翌日から、子は祈りの言葉ではなく愛を歌っている。
旅立った魂に向けて。そして自分に向けて歌われるそれを聞くのが密かな楽しみだった。



穏やかに季節はいくつか過ぎて、子はゆっくりと大人になっていく。
以前のように足繫くここへ通うことはなくなってしまったが、歌は絶えることなく響いていた。
健やかでいるらしい。そんなことを思いつつ、自分の中の変わっていく部分をただ眺めていた。
形を持った自分の一部と、よく似た姿をした命の芽生え。黒い翅を持った蝶。魂にも似ているそれらは、ここから離れられない自分の代わりに麓で魂を導いてくれている。
一人の祈りが、歌が自分を変えていく。けれどそれは悪い感覚ではなかった。

歌が聞こえる。
想われることを嬉しく思いながら、言葉を返せないことを少し惜しく思う。今までは必要とせず、存在の有無すら気に留めなかったそれ。
ないものを求めるなど、まるで人間のようだ。笑う代わりに草木を震わせ、音を立てた。



またいくつか季節が過ぎた。
子の訪れは久しく途絶え、絶えず聞こえていたはずの歌もここ数日聞こえない。
人間にとっては、それほど長く時が経ったということだ。その差異が自分の中に黒い染みのようなものをぽたりと落としていく。
ひらり、と自分ではない黒い蝶が過ぎていく。
終わりが近いことを理解して、言葉の代わりに葉を揺らした。

微かに、途切れ途切れに歌が聞こえた。
きっとこれが最後だろう。掠れた声の中に、変わらない想いを感じて聞き入った。
やがて歌が止まった。旋律の代わりに小さく吐息を溢し、消えていく。
木を、地面を、自分の全てを震わせた。もうすぐここを訪れ去っていく、愛しい魂を想い音を立てる。

――神様。

懐かしい声が聞こえた気がした。
ぴたりと音が止む。黒い蝶に連れられて、一つの魂が近づいてくる。
声は聞こえない。何故か静寂を痛いと感じ、音を立てずにそっと葉を震わせた。

言葉があれば。
幾度となく思ったこと。何も言わず、このまま別れを迎えるのは苦しい。人間のような感情に戸惑い、けれど止められない願いに耐えられず。

そっと、目を閉じた。

「――ぁ」

不思議な感覚に、閉じた瞼を開けた。
先程よりも、黒い蝶たちとの距離が近い。呆然と視線を下ろし、あぁ、と掠れた声が漏れた。
小さな子供の体。人間の形をとった自分がいた。
顔を上げる。案内をしてくれた黒い蝶が去り、二人きり。
何も言わず見つめていれば、魂は落ち着きなく翅を震わせる。そこで何も言わずにいたことに気づき口を開くが、あれほど望んでいた言葉は出てこなかった。

「――っ」

言葉が何も浮かばない。
話したいことはたくさんあった。今までの感謝を、そして別れを告げたかった。
けれど今、こうして向き合っていると、どの言葉も口から溢れてくることはない。この場ではどんな言葉も相応しくない気がした。
代わりに、あの日のように花弁を散らす。色鮮やかに地面を染めて降る花を浴びて、魂が小さく笑ったように見えた。
無言のまま、深く頭を下げる。今までの思いを込めて、丁寧に。
そして頭を上げて、手を差し出した。

ひらり、と飛ぶ魂が指に止まる。目を細めて見つめ、ゆっくりと歩き出した。
ざわざわと草葉が揺れる。その音を聞きながら、まるで愛を叫んでいるようだと密かに笑った。
言葉がなくてもこうして答えていたことを、今更ながらに思い出す。
ただのないものねだりをしていただけだったようだ。
そんなことを考えながら魂を伴い、ゆっくりと歩いていく。
次の旅路も幸せであれと、言葉にはせずただ願った。




20260511 『愛を叫ぶ。』

5/12/2026, 10:33:05 PM