あかるあかり

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『大好き』

 カトリック系の幼稚園に通っていた。
 成人したいまとなっては、キリスト教を信じてはいないが、当時は云われるがままに手をあわせ、教わったとおりの祈りをくりかえしていた。

 ある日、母が云った。
「もうすぐ翠ちゃんはお姉ちゃんになるのよ」
 優しく私の髪を撫でながら。私の手をそっと母の腹に添えさせながら。
「ほんと? 女の子? 男の子?」
 目を輝かせた私に母の笑顔は幼稚園で見あげる聖母マリアよりもきらきらとしていた。
「それはまだわからないけどね」

 それから幼稚園で祈りを促されるとき、祈る項目がひとつ増えた。
(妹ですように。どうか女の子が生まれてきますように)

 祈りは届いたのだろうか?
 特別なふわふわした日々が過ぎた。幼稚園児には十月十日などわからない。ある日不在だった母が帰ってきたとき、私は既に姉になっていた。
 母がその小さな小さな赤ん坊を私に見せてくれた。
「お姉ちゃんになったのよ、翠ちゃん」
 私の知る男友だちにも女友だちにも似ていない。母にも父にも似ていない。私の知る限りのどんな人間とも似ていない。小さな、可愛らしいいきもの。
 手は私の手より更に小ちゃくて、なのにちゃんと動いていて。
 どきどきした。
 母は云った。
「女の子よ。翠ちゃんの妹よ」

 ああ、神さま、ありがとうございます!

 いま振り返る。
 あのとき、妹が妹であることを神さまに感謝したけれど、たぶんきっと、弟だったとしても、私はその子を愛したと思う。
 あのとき、たったの三歳でしかなかった私は――それまでひとりっ子として両親の愛情を独り占めしていた幼児だった私は、誰に教えられたわけでもなく、自分に守らなければならない家族ができたのだと、知ったからだ。
 両親が私を守ってくれるように、私はこの新しい家族を守らなければならない。そんな姉としての使命を覚えたのだ。

 もちろん仲違いもした。
 殊に、妹は一歳にもならないうちに大病を患った。両親の愛が目減りしたなんてことはなかったが、親の注意は確実に妹に偏った。
 心臓に負担がかかるからと、妹を泣かすことはもちろん、大笑いさせることもダメだと叱られた。
 硝子細工にふれるように妹を守らねばと思っても、そうもいかない。姉妹喧嘩をすればだいたい私が余計に責められる。
「お姉ちゃんなんだから」
 何度も云われた。

 不公平だ、と、不満に思わなかったといえば嘘だ。
 だが妹の罪ではない。小学生になっても小柄な私より、さらに華奢な妹と道を歩くとき、私は必ず自分が車道側に立って歩くように気をつけた。父や母が、私にそうしてくれたように、真似っ子で私も妹にそうした。

 年に何回か妹は東京の大きな病院まで母に連れていかれる。検査に検査を重ねるらしい。厭がる妹に、おもちゃを買ってあげるから、人形を買ってあげるから、と気をひいて連れていく。
 羨ましいと思いながらも、私は見送るばかりだった。

 妹が最後に大きな病院に連れていかれたのは、妹が小学六年生のとき。それが最後。私たち姉妹の、どこか遠慮しいな関係はそこまで。

 妹は二十歳まで生きられないと、云われていたらしい。
 それが、小学六年のときに、医師にこう云われたという。
「もう大丈夫です。もうこの病気で通院する必要はありません。――治りましたよ、完治です」

 さすがに中学三年の私は、小学六年の妹と、もはや取っくみあいの喧嘩をして泣かせる年齢ではない。それでも、もうこの子を笑わせすぎてはいけないとブレーキをかけなくてもいいのだと安堵した。

 いまでも、正直シスコンだ。自覚はある。
 妹は可愛らしくもクールな子に育った。
「お姉ちゃん、シスコンって云ってたけど、シスコンって、何?」
 そんなことを訊かれた。知っていて訊くのか、知らずに訊いているのか。ちょっと怖くてはぐらかした。
 姉という生きものは、いつまでたっても姉なのだ。そんなことを、思いながら。

3/18/2025, 11:06:39 AM