ルール
「ケ〜イ。練習終了のお時間だよ」
ハヤテの声で、意識が現実に引き戻された。目をやると、トロンボーンのケースを持っていた。片付け終わってから、こちらに来たのだろう。
俺は、トランペットのマウスピースから唇を離す。じんわりとした感覚が、まだ唇に残っていた。
「練習熱心だねえ、部長殿」
ハヤテはトロンボーンのケースに顎を乗せて言う。
「茶化すな」
時計を見ると、針は六時一分をさしていた。俺は、眼鏡のブリッジを軽く上げる。いつものクセだ。
「一分過ぎてしまった。早く帰ろう」
今日は、空調整備が入るからと教室が使えず、パート練ができないため、部活はオフになった。ただ、音楽室は整備が別日というので、俺とハヤテは許可を取って自主練をしていた。今年は、最後のコンクールだしな。
「あ!終了時間を過ぎたから、怨念が出るかも」
少しニヤけた声でハヤテが言った。
「なんだそれは」
「まあ、ケイはこういうの知らないか」
ハヤテは、わざとらしく声を潜めた。
「なんでも、ルールを破ると、どこからか楽器の音が聞こえてくるんだ。昔、事故でコンクールに出られなかった部員の怨念だとか」
よくありそうな、陳腐な怪談だな。
「くだらん。どうせ、ルールを守らせるためにできた、根も葉もない戯言だろう」
「まあ、俺もクラリの人たちが話してるの聞いただけなんだけどね」
あっけらかんと言ってみせた。ハヤテも信じてはないのだろう。女子は噂話が好きだからな。
楽器に軽くスワブを通し終わり、楽器をしまうと、ケースのロックをかける。
「楽器室、鍵閉めちゃったけどいい?」
「ああ、こいつは持って帰る。お前もか?」
「もちのろんよ。メグリは俺と一心同体だから」
ハヤテは、トロンボーンをケースごと抱きしめる。
メグリとは、こいつがトロンボーンにつけた名前だ。いつも、メグリが、メグリが、と話している。まあ、楽器を大切にするのは良いことだが。
音楽室を出て、施錠をする。二人で昇降口へと歩き出した。
「まったく、お前はいつもそれだな」
「えー、お前もかわいがってあげないと、リツが泣いちゃうぞ」
「俺だって、大事にはしている」
俺は、トランペットにリツと名づけた。漢字だと律。リツを買ってもらってから、もう六年目か。
雑談を交わしつつ、歩いていると、昇降口に着いた。目の前の事務室に、音楽室の鍵を返却する。
「ご苦労さん」
いつもの事務員さんが対応してくれた。
「じゃあ帰ろ。お腹すいたなあ」
ハヤテが手を上に上げ、伸びをした。比較的小さいペットならまだしも、長いボーンを毎日のごとく持って帰るのは大変だろう。
外に出ると、まだあたりが明るかった。雨上がり特有の眠たい香りが漂っている。ついさっきまで、お天気雨が降っていたからだろう。
ふと、足を止めた。金管楽器の音がした。気がした。
「どした、忘れ物?」
「今、なにか聞こえなかったか」
「うん?」
ハヤテは首を傾げて、耳を澄ませる。
パーという、高い音。今年のコンクール課題曲の、セカンドパートの旋律。
「トランペットの音」
ハヤテの口から、静かな声がこぼれた。
教室の方から聞こえてくる。誰がこんな時間に。まさか、本当に怨念が…
「いや、これはユキトの音だ」
同じ楽器の同じ音にも、吹き手によって個性が出る。この澄んだ優しいサウンドは、ユキトの音だ。
「なんだユキトくんか、最近根詰めてるもんな」
「頑張るのはいいが、規則違反だ。明日注意しておこう」
後輩のユキトは、最近調子が良くないようで、かなり練習をしている。二年生なのに、よくやっている。だが、やりすぎだ。今度、話を聞いたほうが良いかもしれん。
「でも、今日は教室に入れないはずじゃ」
「あっ」
そうだ。教室の方は、空調整備の業者以外、立入禁止のはず。ユキトが居るはずないのだ。背中から、ゾワゾワとした感覚が全身に這い回ってくる。
俺達は、再び耳を澄ませる。
なにも聞こえて来なかった。静寂が、俺達を包む。
「気のせい、だよな」
自分に言い聞かせるように口に出す。
「きっと疲れてんだ。早く帰ろう、電車がなくなる」
そういうハヤテの口調にも、どこか焦りが滲んでいた。
「そうだな」
きっと疲れているんだ。明日も部活がない。帰ったら、少しゆっくりしよう。
不意に不安になって、その場に腰を下ろし、膝の上で楽器ケースを開けた。カチャリとロックの擦れる音が鳴る。
そこには、ケースの内張りのふわりとした毛に包まれた、いつものトランペットがあった。金メッキが輝く表面を優しく指でなぞる。リツ…いつもの冷たい感触。ほのかに香る、オイルの匂いに、少し安心した。
4/25/2026, 4:42:15 AM