彼女には年の離れた姉が一人いた。
幼い頃から何でもできた天才肌。彼女の姉は、親の自慢だった。
だからだろう。彼女が物心ついた時から、常に姉のようになれと言われ続けてきた。
彼女が人より劣っていたわけではない。努力を惜しまない彼女は、むしろ周りよりも優れていたように思う。
だが姉と比べれば、どうしても劣って見える。それほど姉は優秀だった。
彼女には姉がいた。
けれど一昨年の暮れ。姉は帰らぬ人となった。
誰もが姉の死を悼み、その存在をさらに美化し始める。欠点一つない、完璧で理想の姿を、姉を知る人たちは作り上げてしまった。
それは彼女も同じで、誇りだった姉に近づこうと努力を続けていた。
気づいた時には、もう手遅れ。
何もかもが、変わってしまっていた。
「変わったね」
そう彼女に告げれば、どこか冷めた目がこちらに向けられる。
以前の彼女ならば決してしないような目。それは彼女の姉の目によく似ていた。
「本当に変わってしまった。理想のあなたになった感想はどう?」
彼女は何も言わない。視線は逸らされることなく、その見透かすような視線も彼女の姉と同じだ。
彼女は変わった。誰もが望んだ、彼女の姉になってしまった。
もうあの陽だまりのように柔らかな微笑みは、二度と見ることはできない。
「思ったよりも、生き汚かったんだね」
親友でもあった彼女の姉を思いながら、無意識に呟いた。
妹を大切にしている人だったはずだ。少なくとも自分にはそう見えていた。
目を細める彼女に背を向ける。これ以上話す気分になれなかった。
「――この子は、ありのままで生きる方法を知らない。理想を求められすぎて、一人では息の吸い方すらできなくなってしまった」
淡々とした言葉。振り返れば、ほんの僅か顔を歪めた彼女が自身の胸に手を当てていた。
「この子がこの子として生きられる場所は、ここではない」
そういうことか。理解したと同時に、その不器用さに呆れてしまう。
溜息を吐いて、彼女に近づいた。無言で手を出せば、彼女は胸に当てていた手をそっと重ねる。
伝わる温もり。陽だまりのように柔らかで、愛おしい。
彼女の手が離れても消えず、体の中に馴染んでいく。
「私は、私のやり方でこの子を愛すわ。この子は私の子。もうあなたの妹じゃない」
「それでいい……その方が、いい」
そう言って彼女は薄く笑う。笑っているのに、今にも泣きそうな顔だった。
本当に不器用な親友だ。温もりが形を持って命として宿っていくのを感じながら、密かに嘆息した。
「優しいのはとてもいいけれど、女の子なんだからもう少し控えめな方が将来困らないと思うよ」
かけられた言葉に、思わず眉を顰めた。
彼女の姉の七回忌。施主である彼女の両親が娘をずっと見ていたことには最初から気づいていた。
まだ三つになったばかりの娘は、彼女によく似ている。だからこそ口に出さずにはいられなかったのだろう。
「今のままでいいと思っています。私は娘がしたいようにするのが一番だと思っていますから」
「でもねぇ、あなたは初めての子育てでしょう?年長者の意見は聞いておいて損はないと――」
「他人の家のことに口出しをするな」
叔母の言葉を遮り、はっきりと告げる。
途端に顔を歪ませ怒りを露にする様を見て鼻で笑いながら、何かを言われる前に言葉を続ける。
「以前、叔母さんが言ったことです。私や母が、あの子に対する態度を改めるように忠告した時、そう言って聞き入れなかったじゃないですか」
「っ、だけど、あの時とは話が……っ」
「違いませんよ。あの子は叔母さんの理想になったんですから、それで満足してください。今度は私の娘を、変わってしまう前のあの子にしようとしないで」
顔を赤くし、何も言えなくなってしまった叔母に会釈し、娘の元へと向かう。
後ろで何かをわめいているようだが、気に留める必要はないだろう。
「ママ!」
「待たせてごめんね」
駆け寄る娘を抱き留め頭を撫でながら、一緒に待ってくれていた彼女に視線を向ける。
「見ててくれてありがとう。我儘言ってなかった?」
「いい子だった……ずっと、いい子だったよ」
言葉の含みに気づかない振りをして、娘と手を繋ぎながら歩き出す。
名残惜し気に手を伸ばす娘に一瞬だけ泣きそうな顔をした彼女は、そっとその小さな手を繋いで一緒に家を出た。
娘は、彼女のことがとても気に入ったらしい。ご機嫌で歌を歌っている娘を見て苦笑する。
「理想のあなたになれて、周りの反応はどう?」
ふと思いついて彼女に問う。
冷めた目をして彼女は笑った。
「喜んだのは最初だけ。結局、なくしたものに焦がれているに過ぎない」
「だろうね。最初は、ただの目標みたいに言ってたのが、死んでからは本気であなたの代わりにならせようって必死だった。さっきも言っていることはまだ軽かったけど、娘を見る目は同じだった……叔母さんって、昔からないものねだりが強いって母さんが言ってたのを思い出したよ」
手に入らないからこそ、輝いて見える。そしてそれが欲しくて堪らなくなってしまう。
叔母はそういう人だった。
笑う自分は今、きっと彼女と同じように冷めた目をしているのだろう。
「――可愛い」
ぽつりと彼女が呟く。その目は娘に向けられており、柔らかく微笑みを浮かべていた。
「当たり前でしょ。私の自慢の娘なんだから」
「今はね。前は私の自慢の妹だった」
胸を張ってそう言えば、彼女も誇らしげに答える。
何だかそれがおかしくて、声を上げて笑った。
「ママ、ごきげんね」
釣られて娘も笑い、彼女も笑う。
あの日感じた陽だまりのような温もり。繋いだ手から伝わって、それがただ愛おしかった。
20260520 『理想のあなた』
5/22/2026, 1:17:05 AM