『愛があれば何でもできる?』
うーん…そもそも
私が思う「愛」とは
・いかに相手を信頼し、心を許すことができているか!?
・自分が犠牲になってでも、その相手に幸せになって欲しいと強く想うこと
・つまり、自分の気持ちよりも相手の幸せを本当に心底願えるか!?
だと思っている
これは恋人に限らずだ
友人、家族にも「愛」は存在する
私は…両親や姉、夫からの愛は知らない
でも今はわかるのだ
子どもを産むことが出来た事が1番大きいだろう…
自分の何に代えても、この子達を守りたい
この子達のためなら、惜しみなく命さえ差し出せる
そう思った
特に先天性の病気を抱えた我が子を目の当たりにし
本来、新生児で見つかるべき病気が7歳まで発見が遅れたときだ
田舎の病院では見つけにくかったのかもしれない…
それは掛かり付けの医師にも謝罪された…
でも大きな病院で遺伝性が大きいと医師に言われ
自分自身もその病気だった可能性が出てきたとき…
自分は深刻に発症しなかっただけで
我が子に遺伝させてしまったんだと気がついたとき
申し訳ない気持ちと、どこにもぶつけることのできない悲痛
終いには…子育てに非協力的な夫に
「お前のせいで病気になったんだ!発見が遅れた!」と言われ…
私は…
『今までのこの子の痛みや苦しみが楽になるなら…
これからの人生、この子の足を引っ張ることになるのなら…
私の命を捧げます!』
と何度も何度も人知れず祈った、願った、泣いた
手術は成功したが、10年経っても尚、薬が必要だ
自己ケアも毎日続けなくてはならない
思春期に入って、薬の管理を出来なくなった途端
再発をして入院したりもした
それを怠ると…最悪、お腹に管を付けたまま
一生を過ごさなければならないのだ
でも、「今後の人生のことを考えると
薬の管理は自分自身でさせなさい!」と医師に指示された
確かに…
ずっと私が傍で見守ることは不可能なのだ
どうやったって平均寿命まで生きられたとして
私のほうが先にこの世を去る
私の犯した罪は、この子に遺伝させてしまったことだ…
それがこの題材の答えだ
『愛があれば何でもできる?』
想うこと、願う事、祈ることだとすれば「YES」だ
だが、
物理的に、科学的に不可能も有り得るのだから「NO」だ
だとすれば…
答えは『どちらでもない』
ただ一つ言えること
私の命と引き換えに、
この子が後遺症もなく、
一生健康に生きることが出来るのなら…
今すぐにでも迷いなく差し出す!
それは確かな我が子への「愛」だ!
それ以外の何者でもない
本来…親とはこういう生き物なんだと…
親から愛を貰えなかった私が
唯一誇れることなのかもしれない
5/16/2024, 12:38:26 PM