池上さゆり

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 中学二年生の夏休み。図書館で目が合ったような。そんな気がした。分厚い背表紙に描かれた緑がかった灰色の瞳の女性。ドキドキしながら手に取ると、ずっしりとした重みを感じた。中をパラパラと目を通したが、難しい言葉が多く使われていてよくわからなかった。だが、それぐらいのことでこの本を諦めたくないという強い思いを抱きながら、貸出カウンターに向かった。初めて借りた国語辞典よりも分厚い本に胸が高鳴っていた。
 それから毎日時間を見つけては読み進めていた。自宅にある国語辞典を隣に置いていた。わからない言葉が出るたびに索引する。本の貸出期間は一週間だったが、その期間では到底読みきれず、何度も一度返しては再び借りていた。
 二学期が始まってからも、まだ読んでいた。続きが気になって気になって、授業に集中できなかった。教室の中で一番後ろの席に座っていたこともあり、国語の授業中に国語辞典を使うふりをして、その本を読んでいた。
「これ辞書じゃないよね。本は片付けなさい」
 先生の巡回に気づかず、怒られてしまった。仕方なく引き出しの中に入れようとすると、先生にこんな難しい本を読んでいるのと感心された。先生がそれを没収したことによって、なぜかクラスメイトからは授業中に辞書を読んでいると勘違いされた。
 放課後、職員室に行って本を返してもらった。授業中は読まないようにと注意を受けただけで済んだ。だが、私はそれを授業中以外は好きに読んでいいと受け取った。それからは登下校中も、給食の時間も、休み時間も、部活の時間も全て読書に費やした。
 それぐらい、その本の虜になっていた。たった一枚の紙から伝わってくるピリピリとした緊張感や、主人公の感情が脳に流れ込んでくるような感覚があった。初めての感覚に私は息をするのを忘れてしまうぐらい集中していた。
 そして、二ヶ月ほどかけて読み進めたその本を閉じた時。頭の中には、私もこんな物語を綴れる人になりたいという欲に染まっていた。決して、後味のいい話ではなかった。胸糞が悪くなるような展開も多く、人が死ぬこともあった。それでも、それは私の今までの価値観すべてを塗り替えられたような感覚があった。
 返却期限がやってきて、私はその本を返した。あれから習慣のように読書を何年も続けているが、あの本を超えるものには出会えていない。間違いなく、私はあの本に恋をしていた。今でもあの本以上に好きな本は見つからない。

6/16/2023, 10:05:45 AM