かおる

Open App

何もいらない

 目を瞑った世界は、インク壺の中身のような、あるいは蓋を空け忘れた望遠鏡のような、光を失った暗くて恐ろしいものだと皆は言う。
 隣を歩く薄青の瞳が瞼に隠される。日焼けを知らない白色はほんのりと朱に染まり、持ち主の薄らとした興奮を伝えてきた。
「躑躅?」
 暖かな春の風には確かに初夏の気配が混じっていた。ピンク色のその可憐な姿よりも先に、幼い頃に僅かな花蜜を求めて吸い込んだ花弁のひたりとした瑞々しさを思い出した舌がそう漏らすと、瞼の中から出てきた一対の薄青が緩く弧を描いた。
 同じ高さにある薄青を宝物のようにそっと瞼の中へと隠すその姿は、僕にとって世界の綺麗なものを拾い上げるための合図だ。
 姿の見えない鳥が密やかに交わす話し声、真っ黒な湖面を走るひんやりとした風、図書館の古い本が醸す重い香り、かつて口の中で転がした躑躅の青臭い蜜。
 手の上へと拾い上げたそれらを口に出せば、瞼を縁取る睫毛がふるりと震え、ゆらりと光を纏った瞳が現れる。僅かに青を濃くした三日月が僕だけを映し出したとき、ほんの少しだけこのままならない世界のことが好きだと思える。
 相変わらず僕はこの場所が嫌いだし、生まれを嘆くことも手放せない。
 けれども青い月に心の奥底がじわりと照らされたとき、黒いと思い込んでいたインクに混じる青を知ったときのような、蓋の外された望遠鏡が遠くの灯りを運んできたときのような、指の先を痺れさせる感動が静かに立ちのぼる。
 光など差す訳もないとささくれてしまった心を撫でて、暗闇に沈んだその先を指し示す。
 弧を描いた薄青が再び血色の良い瞼の中に消えていく。
 青い月が照らすその世界がまた一つ、愛おしいものへと変わっていった。

4/20/2026, 7:09:45 PM