遠江

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『愛におやすみ』
遠江

気がついたら汽車の中だった。

深紅のヴェルベットの椅子の上でからだが跳ねる。暖かな車内と、汽車特有の匂い。煙や油、木の床やニスの匂い、そんなものの中に今いる。窓の隙間からの風がすこし足元を冷やす。

『私は…』と膝のお皿を見る。自分の意思でこの汽車に乗ったのだろうか。指輪が台座にはまったような居心地のよさに、連れ去られてきたとは思えない。しかし切符を買ったりだとか、どこそこへ行こうと駅へ向かった記憶はない。
ただ《急行》と汽車のツヤツヤの黒い鼻先へ掲げられているはず。それを何故か、私は、知っている。やはり『どこへ向かうのか』はぼんやりとしている。けれどそれを不安には思わない。例えるなら、お気に入りの本のページがまだまだ残っているからあと何ページで読み終わってしまう、と気にしなくていいような、満たされた落ち着き。こんなときに私は世界一の贅沢者になった心地がする。
揺れが滑らかになりカーテンを開けると、海の上を走っていた。満月の明かりが太いいっぽんの線となり、煌めく水の上に横たわっている。月の筋道を線路にして汽車は走る。
どこか前の車両から、オペラが細く流れ込んでくる。トゥーランドット、第一幕。ここからでは姿は見えないが、演奏会が開かれているのかもしれない。この汽車は上等のようだから、きっと趣味のいい人が走らせているのだろう。

ふと隣を見ると、白く美しい馬がすやすやと眠っていた。いや、違う。馬の背には純白の二対のおおきな翼が生えている。
ペガサスだ。驚きを抑え、息をゆっくり吐きながら様子をうかがう。椅子がギッと鳴って、慌てて前傾しかけた姿勢を止める。起きた気配はない。首を傾けてまじまじ見ると、それは器用にヴェルヴェットのソファに胴体を預け、テーブルに前脚と頭を乗せ、眠りながらときおり、ぴくっ、と動く。耳を震わせ、またとろりと眠りに戻る。
まつ毛はススキのように長く、白い毛並みからは氷の彫像のような儚い印象を受ける。だが、当たり前に私よりも大きな体。
息をするたびに波打つその胴が、暖かく柔らかいことを知っている。私はこのペガサスを以前より知っている。美しく尊大で、……その自由が羨ましい。
オペラの曲調が変わった。王子のテノールの歌声がトゥーランドットの姫君へ釘付けになっている。歌声に共鳴するように天井から吊り下がるランプが細かく揺れる。物語は進む。景色は流れ、私たちはどこかへ運ばれていく。
だんだんと思い出してきた。この汽車に乗るまで私は悲しんでいた。
なぜだったろうか。何かを、失った気がする。けれど、今はその悲しみがない。私の悲しみはこの列車に乗るとすぅっと抜き去られた。理由は多分、私が半分になったから。感情の私を残して、思考をする私だけが汽車に乗った。だから私の白魚のような手は、今本当に半透明にキラキラ透けている。
そっか。私は今ちょっと幽体離脱中らしい。
窓に映る自分を見やる。まつ毛が煌めく。小さな星のかけらを乗せて化粧しているのだ。
胸元にかかる黒髪は揺れてその中を魚の影が泳いでいく。着ているのは紺色のドレス。バクの夢で織った柔らかな布。この汽車に乗ったときから着ていたらしい。何故それがそうであるとはわからないけれど、知っている。
遠くの方で楽団が、第二幕を弾いている。悲しげなソプラノ。
誰かが近づいて来た。座る頭上に気配を感じる。
目線をあげると駅員さんだった。旧い駅員の格好をし、顔の部分は黒煙になっている。白い手袋が、金色のシュワシュワする飲み物を細いグラスにとぷとぷ注いでくれる。何某ですよ、と煙のなかから教えてくれた。柱時計のような優しい声はおぼろに聞き取れなかった。飲んでもいいか迷って唇を湿らすだけ口をつける。華やかなシードルの香り。
これを、と言われて封のされた手紙を受け取る。
見覚えがある。昔書いた手紙だった。幼少の時分、十年後の自分に書けといわれた夏休みの宿題。何を書いたのだっけ。実家近くのファンシーショップで買った星柄の封筒を開ける。

《あなたは幸せですか?》

小さな私は問いかけてきた。
白紙に落とした一滴の墨のように、暗いトンネルから遠くに見える光のフレアのように、シンプルな問いは波紋を広げる。
ちんまりした彼女は体いっぱい悩んでいるようだった。幸せになりたい。でも、なり方がわからない。ビー玉の瞳が揺れるのが見える。どうなればゴールなのかも、どう進めばいいかも分からないと。惑う少女の真っすぐ見つめる先に、私がいる。

手紙を、膝に伏せた。外は夜になりつつあった。いつの間に日が昇っていたのだろう。まるで舞台美術のように美しい。アッパーホリゾントとロアーホリゾントが混ざりあって、赤と青が夕暮れ色をつくる。太陽が今日にお別れを言っている。私も窓の外へゆうるり手を振った。
耳に第三幕を弾き始めた管弦楽団の音色が流れ込んでくる。
窓のサッシを指でなぞる。手紙を夕陽の残り香に透かす。幸せへの地図は、少しずつ詳細になりつつある、と思う。その過程で出会った人は何人もいて、今でも共にいる人は手で数えられるほどにいる。
それを思い出せば、ぼんやりとしていた周りが見えてきた。例えば、前の席で眠る画家の格好をした少女。後ろの席で突っ伏しているヴァイオリン弾きらしい姿の青年。ふたりともかけがえのない仲間だ。彼らは私が汽車を降りたあとも、さらに先の駅にゆくのかもしれない。きっとどこかの町か、よく晴れた平原にでも降りて、元の姿になって生きていくのだろう。
その先でもどうか幸せであって欲しいと思う。なにかに傷つけられそうな時に逃げる足と、助けを呼ぶ声を神様が彼らから奪わないことを祈る。
でも、と隣を見る。羽を折りたたみ眠りこけている能天気なペガサス。
彼には私と同じ景色を見て欲しかった。ほら、窓の外。ペガスス座流星群だ。あなたの星座じゃないか。どうして起きないの。……これだけ眠りが深いのだ。私と同じ駅で降りることはできないだろう。
指先で彼のたてがみを撫でる。蚕の糸のように艶やかな毛は震えて美しいラの音を奏でた。指を滑らせ彼の全身を弾くように撫でる。幻獣のわななきは不思議な音色をしていた。ハープとパイプオルガンとお鈴を混ぜたような、祈りと陶酔を誘う響き。魂のいちばん気持ちいいところを撫でられた心地に瞼を閉じる。
頬を寄せたたてがみはガラスを含んでつやつやして、ちょっと硬い。これを丁寧に三つ編みにしてあげたっけ。
人のいない綺麗な湖の近くで果物を食んでいるような彼だから、はじめは嫌がりはしないかと思ってそろそろと触れた。純白の生き物はゆっくり瞬きをしながら、そのまま林檎を食んで、編みやすいように寝そべった。許されたと感じて、笑みがこぼれた。
髪が編み上がると彼は不思議そうに何度も湖面で自分の姿を見ていた。それを愛おしく思った。
遠い彼方の記憶だ。首に手を添え、白い鼻先にキスをする。鼻がつん、として震える唇で微笑んだ。
思い出してしまった。彼は美しい獣。私の大きな弦楽器。そして、旧い恋人。
汽車の魔法が溶けた彼は青年の姿をしていた。月の光に穏やかな寝顔を照らされて。
頬骨に触れる。あたたかい。彼は今はまだここにいる。ただ眠っている。明日私に、おはようというみたいに。
沈んだ太陽は二度と同じようには昇らない。ひとつひとつのおはようと、おやすみは口に出した時に生まれては死んでいく。それをあなたと繰り返したかった。おやすみは祈りで、愛だから。おはようが生まれないのなら、おやすみを言いたくなくって私は汽車へ飛び乗ったのだ。
サラサラとした髪、長い下まつげ、色づいた林檎色の唇。泣きたいほどに可愛くて愛おしい。あなたをスプーンですくって、丸く固めて飴玉にしたい。
もう一度、朝も夜も、上も下もわからなくなる鼻濁音のあたたかさに身を委ねたい。凍っていた心は溶けだして、その濁流に飲まれそう。涙がスカートを濡らして、ぽつぽつと花を咲かせた。
同じ毛布にくるまって違う夢を見ていたとしても、あたたかさをわけあっていたかった。
私はまだ汽車を降りられない。
ゴトゴト揺られる。路面の悪い道を走っているようだった。やがて揺れが眠気を呼んで瞼が降りてきた。どれくらい経ったろうか。音楽はいつの間にか終わり、揺れが収まっている。
頭上から『おやすみ』という声がそっと降ってきた。
聞こえないふりして、目を瞑った。おやすみなんて返してあげない。いい夢を、なんて祈ってやらない。毛布をぎゅうっと握る。窓の外では有明の月が白く輝いていた。





『春の嵐は雪の朝を見ない』
遠江

夢を見ていた。

自分がペガサスになる夢。
いつもは小高い丘で退屈に楽しく日がな一日を過ごす。ただ、その日は湖の橋の辺りまで行ってみた。
すると春の嵐がやってきた。気づいた時には巻き込まれたあとだった。吹き荒れる嵐が数える程しか広げたことのない羽を揺り動かして、羽ばたかせる。上へ、上へ。轟音の風の中、柔らかな手が伸びてきて横面を撫でられた。なんだか心地よかった。
静けさを取り戻すと、山の頂上にいた。空にとても近くて、静かだけれど豊かで贅沢だった。見たことのない鳥に、鮮やかな木々、いい香りのする土。自分の目に涙が浮かんだ。
少し遠くにいた嵐はしゅるしゅると自分より小さくなって近づいてきた。様子を見ているとそっと手を差し伸べられ、ダンスに誘われた。なんだか滑稽な春の陽気に誘われ手を取った。
春嵐と踊る。楽しかった。疲れて、たてがみも気に入った草原もめちゃくちゃになった。でも、ひとりではできなかったこと。だから、憎めない春の嵐。

「ん……」

瞼の中で目が動いたのを感じ、目を開けると夢で見た春の嵐が隣にいた。ふかふかの椅子の上で風が渦を巻いている。桜の香りを撒き散らし、カーテンがバサバサ揺れる。突っ伏した頭をもたげ、首をバキ、と鳴らした。頭を振り、知った名前を呟くと嵐は女の形になった。
やはりその名前をもつ女の人だった。鼻の頭が赤い。辺りを見回すと荷棚に毛布がある。漆塗りのテーブルに手をついて立ち上がり、毛布を取り、眠る彼女のこりんとした肩にかけてあげた。
空気の速度が緩まる。汽車が止まるのだ。
タマゴとパン、朝食の匂い。朝の気配がする。
重いカーテンをめくると丸い窓の外は雪の降る丘だった。真新しい雪の結晶が、ぱたぱた音を立てて北の土地を覆う。あそこに足を下ろせば積もった雪の暖かな無音が自分を包むだろう。嵐も、汽笛も聞こえない真っ白な空間。ここが降りる場所だ、と直感した。窓際のフックからカバンを持って立ち上がる。
座席を振り返る。
仄かに花の香りのする黒檀の髪がトロトロと手すりから零れて床へつきそうだった。
彼女はどこまで行くのだろうか。きっとどこへでも行って、気まぐれにどんなに高い山の上からでも手紙をよこすのだろう、『良かったらおいで』と。
咳をするみたいに息で笑った。自分に翼はないから行けないし、行かない。けれど、彼女がこれからも素敵なものを見続けられればいいと思う。それが海を越えてゆく嵐のあるべき姿だから。
いつかその話を聞けたら楽しい。どこか都会のカフェだろうか。披露宴のテーブル? ランプの下の寝物語かもしれない。
もし、……そんな日が来たとしたら、自分たちはどんな顔で、どんな言葉を交わすのだろうか。未来は分からない。今を確かにするのが、自分の誠実だ。
汽車が完全に止まった。彼女は起きない。

「おやすみ」

呟いて柱に手をかけ、降りた。
朝日が眩しい。強く目を閉じる。目を開けると汽車はすでに見えなくなっていた。銀世界は全ての五感と感情とを吸い込み、その白さを増していく。
ふと、朝食くらい一緒に食べても良かったかな、と思った。


1/25/2026, 1:20:52 PM