彼は、心底怯えていた。
吹き荒ぶ雪の中、真っ白な世界にひとり取り残され、周りには見知った生き物の気配がない。
いや、――遠くから、脅かすような、吠え声だけは聞こえてきていた。獰猛な、獣のような。
この土地にしては例年よりも早い、大雪の訪れだった。
彼と一緒にここへ来た主人は、辺りの様子を見てくる、と言って、しばらく前にこの場所を離れ、そこから戻ってくる様子もない。
果たして、この雪の中で、方角を間違わず、戻ってこられるのだろうか。
身体の芯まで届くような寒さに、彼は震え、足踏みをした。
そうしているうちにも、あの恐ろしい声は、どんどんこちらへ近づいてくる。
怖い。逃げたい。
そう思う彼をここに留まらせているのは、主人への忠誠心などではない。
革紐で、近くの木に繋がれているからだ。
彼を買った主人は、決してひどい人物ではないが、たまに声を荒げたり、叩かれたりすることもあった。
鋭い気配が、迫ってくる。
嫌だ、死にたくない……!
彼は、必死に身を捩った。
すると、主人が急いで繋いだためか、木に結ばれた革紐の結び目が、少し緩んだ気がした。
いける……!
彼は、より強い力で、革紐を何度も引っ張った。
とうとう、結び目が解けた。
雪の中を、彼は、一目散に駆け出した。
恐ろしい獣の声とは逆方向へ。
地面を蹴る彼の蹄の下で、ぱっ、ぱっと白い雪煙が舞い上がる。
あれほど恐ろしかった獣の気配は、あっという間に後ろへ遠ざかっていく。
たてがみを靡かせ、走っていく彼の身体は、翼でも生えたかのように軽かった。
『白と馬』
(雪原の先へ)
12/8/2025, 8:09:13 PM