小石川梢子

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『花畑』

「花が見たい」
 それが彼女の口癖だった。
「地平線まで続く花畑を見せてあげる」
 僕がそう返すのがお決まりだった。そう言って二人で笑う時間が幸せだった。
「花は太陽の光がないと育たないのよ?無理するより今を大切にしなさいな」
 知ったふうでそんなことを言う偽善者たちもいたが、僕は決して諦めるつもりなどなかった。太陽の光が浴びれない彼女に、地上いっぱいの花を見せてやることが僕の生涯の夢だった。
 そのために僕は医学、薬学、植物学、果てには錬金学まで、役に立ちそうなものは片っ端から学んだ。彼女の太陽病は治せないのか。太陽が必要でない花は無いのか。図書館の隅から隅まで本を読んだ。国の端から端まで専門家を探した。世界の果てまで手がかりを求めに行った。
 だが、成果はなかった。もう時間も少ないというのに、僅かな手がかりすら得られない。正直、疲れていた。イラついていた。彼女の容態は徐々に、しかし着実に悪くなっているのに、僕には何も出来ることがない。無力だった。彼女の明るい笑顔を見てもその気持ちは晴れなかった。だから、そう言い訳をしても許されやしないが。僕は、彼女がいつものように
「花が見たい」
 と言った時に思わず、
「見れるわけないだろ」
 そう呟いてしまった。絶対に言ってはいけない言葉を吐いてしまった。一億回悔やんでも悔やみきれない。一兆回謝っても謝り足りない。とにかく言ってしまったのだ。視界の端では、彼女が驚きとも悲しみともつかない顔をしていた。僕がその部屋にいる間、彼女は明るい顔を取り戻すことは無かった。
 僕は罪悪感から彼女を訪ねるのを控えるようになった。自分自身を苛むことに耐えられなかった。彼女に合わせる顔などないと思い込んでいた。僕はよりいっそう研究に身を捧げた。いつしか手段が目的にすり変わっていた。いつしか彼女に会うことは無くなっていた。
 やっと研究の成果が出始めたとき、ふと思い出して彼女に会いに行った。だが、彼女はいなかった。もう数ヶ月も前に死んだらしい。誰のための研究だったのだろうか?僕は何をしていたのか?酷いものだ。そこからの僕は死んでいるようだった、らしい。僕にはその時期の記憶がない。覚えているのは、暗くて、胸が痛かったことだけ。
 そんな状態の僕は、ある一冊の本を手に取った。研究の亡者時代に集めた本の中の一つだ。集めたはいいがまるで関係が無さそうだったので、一度も開くことなく部屋の隅に放置していた。はらりと頁が風に捲られた。それまで風なんて一切吹いていなかったのに。
 『天国』と題されたその挿絵には、色鮮やかな花畑が描かれていた。そして、花に囲まれて少女が座っていた。僕にはそれが彼女に見えて、天国では花畑が見れたのだと少し救われたような気持ちになった。頁を捲った風がまるで彼女の意思のように思えた。その本は彼女が死ぬより先に持っていたものだし、そんなことはありえないのだが、それでも僕は救われたのだ。また、風が吹いた。

9/18/2024, 10:35:34 AM