「しーんや」
後ろから声をかけられて、はっと振り向く。ルビンさんはひらひらと手を振りながら近づいてきた。片手に駅前のパン屋の袋がある。バターのいい匂いがした。振られているもう一方の手にも食べかけのクロワッサンが握られていた。「おいしいよ」そうですか。
「今の女の子だれ?」
ルビンさんがそう言ったのが、おれが彼の手の中の袋からひとつパンをもらって口に入れた瞬間だったので、逃げられなかった。小さいアップルパイは、甘酸っぱいリンゴのコンポートとさくさくのパイがマッチして、大変おいしい。ぽろぽろとくずが落ちるのが玉に瑕だ。コートとマフラーを軽くはたいた。
「アオイっていう、図書館であった子」
「彼女?」
「ともだち」
ふうん、とルビンさんは鼻を鳴らす。大人なのに、ルビンさんにはこういう、たまにひどく子どもっぽい仕草があった。からかいをふくんだそれをひと睨みすると、たちまち大人の顔をして目を細めてみせる。
アオイとは、あの日からよく会って話すようになった。毎日図書館に行くわけではないけれど、おれが行くと大体アオイはいるので、そのたびに彼女を駅まで送って歩いた。昼過ぎになれば共働きの両親は家からいなくなり、いつ帰っても自分が学校に行っていないことはバレないのだと言っていたから、大体それくらいの時間だ。話す内容は最初とそんなに変わらない。日常のことをアオイが話し、乞われたときにはたまにおれも話す。さすがに吸血鬼と同居しているなんて詳しいことは話せないから、親代わりの同居人がいるとか、家事は自分がしているとか、そういうふわっとした話になる。
「ユキには言ってる?」
「何を?」
「何って、新しい友だちのこと」
「言ってないけど……」
「けど?」
「なんで? 別に理由ない」
ルビンさんは、雪が降るまでこの町にいるらしい。ここ一週間くらい、雪が降りそうで降らない、ただ寒い日々が続いていて、それがルビンさんのなにかに火をつけたんだそうだ。絶対絶対雪が積もった町を見るまでいるもん、と大人らしからぬ駄々をこね、当然のようにうちにいる。まあおれたちは協会から支給されるお金で生活をしているので、無碍にすることはできない。
あっそう、と彼は言って、それから手の中にあったパンをぱくんと口の中に放り込んだ。少し大きかったのか頬を膨らませて咀嚼し、飲み込んでからおれを見た。
「シンヤ、この町を出る気はない?」
「え?」
びゅう、と何もかも吹き飛ばすような強い風が吹いた。
「シンヤももうすぐ大人だ。働いたり、恋愛したり、したいと思ったりは?」
「……」
「もしくは、しなくては、と思ったりは?」
「……」
「ユキとべったりくっついてなきゃやってられないようだったら、何も言わずに帰るつもりだったけど。新しく友だちを作れるくらいの精神状態なら、そろそろ独り立ちしてもいい頃だと思うんだよね」
今すぐ決めなくていいよ、とルビンさんは言った。まだ帰らないから。この町を離れる時に、一緒に来るかどうか決めておいてね。そう言いながらもう一つパンを渡される。
クロワッサンだった。
1/18/2026, 9:24:01 AM