結城斗永

Open App

『クジラの落とし物』第六話
※2025.10.07投稿『静寂の中心で』の続きです。

【前回のあらすじ】
夜更け、村の廃屋に泊まるセイナたち。ユミの口から、娘ホヅミが現実世界で植物状態にあると明かされる。彼女は娘の意識がこの仮想世界に残っていると信じてここへ来たのだ。外で物思いにふけるユミに寄り添おうとするセイナを、布団の中のマドカが「一人にしないで」と掴み止める。静かな夜、三人それぞれの孤独が揺れる。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 目を覚ますと、朝の光が礼拝堂の高い窓から差し込んでいた。その柔らかく温かい光とは対照的に、硬い床の質感が背中にひんやりと伝わってくる。
 ――よかった、また朝が来た。

「あっ、やっと起きた!」
 マドカの明るい声が聞こえてくる。
「いつまでもここにいたら世界終わっちゃうよ?」
 マドカは礼拝堂の隅にしゃがみ込んで何やら物色しながら、いつものおどけるような口調で言う。昨夜、マドカが私を引き留めたときの寂しげな声はとうに消えていた。
「元気そうでよかった」
 私がそう言うと、マドカは不思議そうに首を傾げる。
「私もマドカさんを見習わなきゃね」
 背後でユミの声がする。ユミの顔には疲れが少し残っているようだったが、表情は幾分か明るかった。

 礼拝堂の中を探索していたマドカが、奥の部屋の扉を開けた瞬間「あっ」と声を上げた。
 マドカに続いて部屋に入ると、埃の溜まった机の上には古びたノートが置かれていた。
「なんか意味深ね」
 そう言ってマドカがノートを開くと、空間に電子的な文字が浮かんだ。
【song_001_hzm /送信エラー】
「音声データみたいね」
 私は無意識に浮かんだ文字に手をかける。短いノイズが空気を震わせたあと、ゆっくりと音声が流れ始めた。
 透き通るような女性の歌声が、礼拝堂の天井に柔らかく反響する。意識の奥に語りかけるような優しい響きだった。
 
『星の鯨に連れられて
 夢の続きか幻か
 いつまで覚えていられるかしら
 夜空に沈む月の囁き』

「この声……」
 ユミの静かなつぶやきが虚空に溶ける。彼女は古い思い出を遡るように目を閉じた。
 音が途切れるたびに、ノイズが教会の空気を震わせる。まるで、この世界そのものが歌に共鳴しているみたいだった。

『闇の狭間に落ちていく
 これは救いか戒めか
 光の向こうで出会えるかしら
 水面に映る夢の面影』

「――ホヅミの声です」ユミがゆっくりと目を開ける。「間違いないわ」
 彼女の声は自信に満ちていた。
 歌声の余韻が静寂の中に残る中、短い電子音とともに空間の文字が変化する。

【データ転送を再開します】

「転送……、再開?」
 マドカが眉をひそめた時には、すでに異変が起こっていた。浮かび上がっていた文字が乱れ、周囲の景色がデータの細かい粒に変わっていく。
「な、何これ、バグ!?」
 マドカが叫ぶ。気づけば私たちの体の一部からも、砂人形が崩れるようにデータが漏れ始め、ノートに向かって流れていく。
「転送ってまさか、私たちも?」
「セイナ、私……怖い」
 マドカが私の腕を掴む。ユミが後ろから私たち二人の肩を包み込む。
「大丈夫。みんな、離れないで」
 ユミの言葉には強い決心が感じられた。まるで転送された先に目指すものがあることを確信しているかのように。
 次第に視界は真っ白な光に包まれ、意識が遠のいていく。

 自分の存在が散り散りになっていく感覚。様々な意識が混ざり合うように、見たことのない光景が私の中を巡る。
 赤ん坊を抱く母親の姿、手首の傷を押さえて涙を流す少年の姿、暗く狭い部屋の隅で心を押し殺している少女の姿。
 意識の境界が混ざり合い、闇の中で意識は完全に途絶えた。

 ふと目を覚ますと、目前には森に囲まれた小さな湖があった。水面には波ひとつなく、鏡のように青白い空を映し出している。
 見上げれば、朝靄の空にまだあの崩れた月がぽっかりと浮かんでいる。
「……ここは……?」
 マドカが立ち上がりながら辺りを見渡す。その瞬間、湖の縁が白い光を放った。光の波紋は時間の流れに逆らうように中央へと収縮していく。
 やがて一点に集中した光の中に女神のシルエットが浮かび上がる。
「祝福の……湖へ……よう……こそ、」
 次第に鮮明になる女神の顔にはノイズが走り、体の大部分は空に浮かぶ月のように大きく崩れていた。

#君が紡ぐ歌
#クジラの落とし物

10/19/2025, 3:53:32 PM