-ゆずぽんず-

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初めてレシピを参考にしながら料理に挑戦をしたのは小学3年生の夏休み、ホットプレートで炒め物か何かを作ったと記憶している。広島県の生まれだもんでモダン焼き(広島のお好み焼き、私の地元の呼称)なんかも作ったりしたもんだ。年の離れた父代わりのような姉のアドバイスを聞きながら、慣れないターナーの扱いに苦戦して完成したものは輝く宝石のように輝いて見えた。家族が口々に美味しいと感想を口にするもんでとても嬉しかった、そして飛び切り美味しさが増すのを感じた。
料理の楽しさ、食べたいものを自分で作ることの面白さ、作ったものを美味しいと食べてくれる喜びを知った私は、夏休みの間は毎日のように新しい料理を作っていた。失敗をして、形が崩れ、味が整わず悔し涙を流したことも嗚咽して姉の腕に抱かれたこともある。けれど、その失敗で挫けることなく姉と二人、時には妹と私の二人だけで甘味作りもしたりしては料理にのめり込んでいった。

小学6年生のいつだったか、母の夕飯作りを手伝っていた時のこと、白菜を刻んでいた時に指を深く切ってしまった。事故などは慣れぬうち、そして慣れ始めと慣れてしばらくすると発生する可能性が高くなる。ハインリッヒの法則を見れば直感的にわかる事だが、当時の私は怪我こそしないものの危うい場面が幾度と見られた。指を切ったのは、それ故のことだろう。慣れ初め、小さな危険因子に気が付かず、気づいても気にも留めず注意を払わなかった。
切った瞬間は何も感じなかった、ドクドクと脈打ち溢れ出る血を見た時に置かれた状況を理解して痛みを自覚した。左手親指の先は表皮も真皮も超えて深く切り込まれており、落ちたものは白菜と共に赤一色のまな板の上にあった。泣き叫ぶ私の状況を理解した兄が私の親指の根元を強く握って止血を試みて、母が張った氷水に私の手を無理やり押し込んだ。激痛に泣き叫び、喚き、大粒の涙を流し続ける私に兄が優しく励ましながら頭を撫でた。どれほどの時間が経ったのだろう、実際には数分だったのかもしれないと思うが私には何時間もそうしていたように思えた。
兄や母の処置が良かったのだろう、傷口は塞がり血が滲むことはもう無くなっていた。ズキズキと、それでいてしっかりと鼓動に併せて強く痛む指先に涙は枯れ果てても、私はいつもでもべそをかいていた。兄の膝の上で指から目を背ける私に、兄弟が慰めの声をかけ、兄と母は消毒や傷の保護と処置を続けてくれていた。ガーゼが指先に触れる時、包帯がガーゼに触れる時、テープを貼る時、何をする時にも激痛を伴う度に枯れたはずの涙が再び流れた。数日後に傷の状態を見ようと、ひとり包帯を解いてみたときには只々、途方に暮れてどうしたものかとあぐねいていた。滲出液とともにびっちりと一体化して固まってしまったガーゼや絆創膏は、私の傷口から離れそうにはなかった。
バケツにぬるま湯を張り、傷にしみないか不安な気持ちを抱えながらそっと指先をふやかしてみることにした。無理に剥がしたりしなかったことが幸いして、傷を悪化させることも、沁みることも、少しの痛みを感じることもなく綺麗になっていく指先に心を撫で下ろした。乾かして改めて消毒と傷の保護をして数日様子をみてみれば、傷は癒えて綺麗な指に戻っていた。失った部分は歪な形になっていたが、強く刺激しない限りは痛みを感じることは無くなっていた。

包丁が、料理が怖くなった私は随分と長いあいだ料理が出来ないでいた。21歳の冬、ルームシェアをしていた会社代表や同僚にご飯や弁当を作ることになった私は、昔の痛い記憶、そしてトラウマを振り払ってレシピサイトを眺めていた。代表が大量の加熱用のまぐろブロックを買ってきたものだから、その処理をどうしたものかと頭を抱えていた。
加熱用のまぐろは血合いの臭みが強いため、酒や生姜などで臭み抜きをして竜田揚げや煮物にしていった。冷凍庫や冷蔵庫に無秩序に、そして無作為に放り込まれている食材は全て料理をしてご馳走に変えていけば、再び料理の楽しさ面白さを感じることが出来ていた。私の作る料理を美味しいと言って喜んでくれる代表や同僚に、私は料理が、食事がもたらす幸せを実感した。それからは皆と現場で汗を流し、帰宅すれば全員の夕飯と翌日の朝食やお弁当の用意をするようになった。月に一万円の手当も貰えるようになった、食費などの経費の管理も任せて貰えるようになった。毎日の食事の用意は大変だったが、感謝されることが嬉しく、必要とされていると感じるとやる気も湧いた。事務作業も頼られるようになり、使い方も知らぬパソコンを独学で学び、オフィスソフトに悩まされた。負担は大いに感じていたが、大好きな料理と事務の手伝いで月々の手当は増えていき、喜ぶ姿もまた増えたことで活力に変わっていた。
代表たちのもとを離れ、ひとりアパートを借りて新しい職場と出会いと仕事に不安を抱えながらも料理をしている時だけは自分らしく、そして楽しく過ごすことができた。自分だけの空間で、自分の食べたいものだけを作ることのできる暮らしに料理好きは加速していった。フライパン、鍋、ターナー、菜箸にお玉など思い思いに好きなデザインやメーカーのものを揃えていけば新しいレシピも創作料理も増えた。
和食しか作って来なかったが、気がつけば中華料理にも興味を持ち始めていたころ、月々の支出はさらに増えていた。日本中華も好き、四川料理も好きと来ればさらに沼に嵌っていくのは必至だった。恋人にも料理を振舞っては二人で幸せを噛み締め、料理が人生にとって重要なものであるという実感と果てない高揚感や幸福感が私を包み込んだ。

いま私は恋人もいなければ、職場でのパワハラや病気の母のことなど不安や懸念、心痛で精神的に追い込まれている。けれど、料理のことを考えている時、YouTubeで料理系クリエイターの動画を観ているとき、そして料理している時には他では決して味わうことの出来ない満足感を噛み締めている。
ストレスのせいだろうか、さらに料理への意欲と関心が高くなった。だから料理に関連するものも
増えた。例えば中華なら、北京鍋と広東鍋があるし、ジャーレンと中華お玉は鉄とステンレス。その他に鉄フライパンが一つと、パンケーキ用の鉄フライパンが一つ。南部鉄器の玉板も増えて、私の家はこの子達で大所帯になっている。
南部鉄器の玉板は良い、フッ素加工のものでは味わえない美味しい卵焼きが焼けるし、程よい大きさから餃子や目玉焼きにも重宝する。活躍の幅は広く、適切な手入れさえしていれば真っ直ぐ育ってくれる。そして卵焼きを焼きあげる時間が早くなったことも、私の生活をさらに豊かにしてくれた。というのも、私は大量に作り置きをして冷凍するのだけれど卵焼きもその限りだ。何枚も焼いて、切り分けて包んで冷凍すればお弁当や朝ごはん、夕飯にだって頂けるのだ。
中華鍋は北京鍋と広東鍋で使い分けをするが、炒め物も揚げ物も、煮物も、料理なら大抵のものはあっという間に大量に、美味しく作り上げることができる。中華の調理道具たちというのは本当に万能で和食を作りたい時にも、その秘めた力を余すことなく発揮してくれる。そして、調理器具や道具ではないが中華は調味料も豊富であることから、これらの新顔も増えて、キッチンに収まりきらなくなってしまった。中華との出会いは、初めて料理をした時の感動を鮮明に思い出させてくれるほどに素敵なものだ。


いつまでも長ったらしく、そして私にしては珍しく言葉が乱れながらも書き連ねた今日の私は、いつになく素直に語ることが出来たのではないだろうか。私の投稿はいつも無駄に長い、いやいや長く書いている節もあるのだけれど付き合って読んでくださる方々への感謝は尽きない。昔から作文など自分の思いの丈を文字にして、文章に起こすことが好きで堪らない。文章を書くこと、活字を読むことは語彙力の向上に良いなんてことをたびたび耳目する。そんなことはどうでもいいし、私には語彙力など微塵もない。ただただ、好きなことを好きなだけ書き連ねている。それこそ無秩序である。

それでも、読んでくださる方々。応援してくださる方々の存在は私の活力と、継続力と幸せの大きな支えになっている。だからこそ、こうしてアプリを続けていられる。好きな文章を書いて、誰かが背中を押してくれる、それだけが私の生きていく糧になっている。

いま、精神的に弱っていることや不安定なこともあっていつに増して話がまとまらず、綺麗に締められない。けれど、ただ語りたかった。いま、これを読むあなたに甘えたかったのだ。


きっとこの先、このアプリでの活動とあなた達と紡いだ時間は忘れたくても忘れられない、尊い記憶として私の胸に光り続けるのだろう。

10/17/2024, 11:15:56 AM