→短編・日記
11月4日(曇り)
今日はお父さんと哀愁の一本釣りに来ました。
海は鉛色の雲を写したように暗い色をしていました。風が吹いて、お弁当の入ったコンビニの袋をペラペラ揺らしました。浜辺には誰もいなくて、振り返ると僕とお父さんの足跡だけが砂浜に残っていました。お父さんはしばらくじっとその足跡を見たあとで、僕の頭を撫でました。
「今日みたいな海にはたくさんの哀愁が漂うんだ。今きっといい哀愁が釣れるぞ」
お父さんの声は明るかったけど、目が赤くて泣いてるみたいでした。
「いっぱい釣ろうね、哀愁」
本当は「大丈夫?」って聞きたかったけど、昨日の夜のことを思い出して言えませんでした。
「哀愁に最適なのは、こういうルアーだ」
お父さんは、釣り道具屋の特価品売り場にあった一番顔の可愛くないルアーを、僕に見せるように目の前で振りました。
「哀愁はサーフフィッシングがかかりやすい。なるべくぎこちなく手繰り寄せるんだ。他の魚にはバレる拙い動きが哀愁を誘う」
僕とお父さんは何度も釣り竿を振りました。可愛くない顔のルアーを海と砂浜を行き来させていると、僕はちょっと悲しくなりました。
「ルアー、可哀想だね」
「それでいいんだ」
お父さんは機械みたいにルアーを放り投げていました。何か考え事をしてるみたいでした。知らない人みたいに見えました。
結局、僕たちは哀愁を釣ることができませんでした。お昼ごはんを食べるのを忘れていたので、家に帰ってからコンビニのお弁当を温めて食べました。
家の中はすごく静かで、昨日の夜と全然違うなと思いました。昨日はお父さんとお母さんがずっと大きな声で喧嘩をしていました。
僕は今日の朝からお母さんに会っていません。お母さん、どこに行ったんだろう? 昨日まで玄関にあったお母さんの靴や、コート掛けのコートやカバンはどこに行ったんだろう?
いっぱいハテナが頭に浮かんだけれど、もう寝なさいとお父さんに言われたので寝ることにしました。
「おやすみなさい」
歯磨きのあと、ダイニングのお父さんに挨拶しました。お父さんは僕に背中を向けたまま「うん」と返しました。
釣れてないと思ってた哀愁が、お父さんの背中に引っかかっていました。
テーマ; 哀愁を誘う
11/5/2024, 2:52:18 AM