〈善悪〉
僕は子どものころから、《善いこと》と《悪いこと》の違いがわからなかった。
小学二年のとき、クラスで飼っていたウサギを放したことがある。柵の外に出たらどうなるのか、純粋に知りたかった。
ウサギは校庭を走り、用務員のおじさんが捕まえるまでの十数分、僕はずっと観察していた。どこまで行けるのか。何を食べようとするのか。追いかけられたとき、どちらに逃げるのか。
先生に呼ばれて「なぜ放したのか」と問われたとき、正直に答えた。見たかったから、と。
先生の顔が歪んだ。その表情の意味が、わからなかった。
中学のころには、転んで泣いている同級生をしばらく見ていたことで、また叱られた。
なぜ助けなかったのかと言われたが、助けることで何が変わるのかが、そのとき僕にはわかっていなかった。痛みは本人のものだ。僕が駆け寄ったところで、痛みは消えない。
叱られた理由が、やはりわからなかった。
だから僕は、観察した。
人は何をすると笑い、何をすると怒るのか。どの行動が得で、どの行動が損か。
善悪ではなく、結果で判断する。それが僕のルールだった。
転機は、高校のときだった。
担任に呼び出され、「お前には何かが欠けている」と言われた。具体的に何かは教えてもらえなかったが、その後しばらく、周囲の目が変わった。腫れ物に触るような距離感。孤立は、効率が悪い。
そこで初めて、演じることを覚えた。
人がどんな反応を期待しているかを先読みして、それに近い表情と言葉を返す。難しくはなかった。観察の蓄積が、そのまま使えた。
二十歳を過ぎるころには、それなりに《まともな人間》を演じられるようになっていた。
空気を読み、適切な言葉を選び、適度に優しさを見せる。そうすれば、社会は問題なく回る。
──あの日までは。
それは些細なことだった。
バイト帰りの夜、路地裏で男が女を押し倒しているのを見た。
普通なら、助けるのだろう。
けれど僕は、立ち止まって観察した。
泣き叫ぶ女の腕に赤い痕があった。抵抗の証拠だ。まだ意識はある。生存率は高い。
助けることで得られるものは何か。危険を冒す価値はあるのか。見過ごした場合の損失は?
答えは簡単だ。関わらない方が合理的だ。
僕はその場を立ち去った。
──それだけのことだった。
翌日、殺人事件があったことを知る。
昨夜、あの路地裏で起きた事件。被害者は死亡。加害者は逃走中。
ニュースを見ながら、見て見ぬふりをした罪悪感があるかと思い、自分の胸に問う。
……何もなかった。
それが答えだ。子どもの頃と同じ、《いつも通り》だ。
違っていたのは、その後だ。
ニュースはどこも同じ話題を繰り返していた。また、SNSでは『目撃者』がいたという話題がトレンドとなる。
『通報しなかった通行人の責任を問うべきだ』
『見て見ぬふりは加害と同じだ』
その言葉が、やけに大きく響いていた。
──あの時、他に誰か見ていたのか?
ならば、そいつも自分と同じだ。
『こいつ、《悪》判定確実だろ』
そんな一言が、何十万と拡散される。何のことか理解しかねる。
だが街に出ると、すぐに理解した。
人々の頭上に、見えないはずの《評価》が浮かんでいる。
善か、悪か。数値で、色で、明確に。
僕の上には、濁った黒が表示されていた。
社会は一変していた。
善と判断された者は優遇され、悪と判定された者は制限される。仕事、移動、発言、すべてに影響が出る。
善悪が、数値として可視化される世界。
面白い、と思った。
感情ではなく、純粋に構造として。
誰かが──何かが──人間の行動に値をつけ、世界を書き換えた。
その《何か》はどんな基準で動いているのか。どんな変数を参照しているのか。
僕は理解した。
あのときの選択が、引き金になったのだと。
けれど、なぜ?
数日後、スマートフォンに通知が来た。
『あなたの行動は《悪》と判定されました。』
意味がわからない。
「やっと見つけた」
声がした。
振り向くと、知らない男が立っていた。年齢不詳、感情のない目。
「君が《起点》だ」
「……何の話だ」
「この世界の歪みの、ね」
男は当然のように言った。
「善悪を判定しているのは、《ルール》と呼ばれる存在だ。人間の行動を観測し、基準に照らして値をつける。
だがその《ルール》は、判定の《原点》を必要とした。善悪を持たない、まっさらな存在を」
「それが、僕だと」
「そうだ。だからこそ、世界は君の判断を基準に再構築された」
僕は少し考えた。
《ルール》。基準を持たない僕を基準にする存在。
それは——かなり、興味深い設計だ。
「その《ルール》は、どこにある」
「君の内側だ。正確には、君があの夜に下した判断の中に」
その男は僕の胸を指差し、続ける。
「つまり、《関わらない》という選択が、全人類の善悪の原点になったと?」
「そうだ。君という変数が、世界という関数を書き換えた」
「なるほど」
口にしてから、自分でも少し意外だった。なるほど、と思っていた。怒りでも恐怖でもなく、純粋な納得として。
「このままでは、世界は歪み続ける。
《ルール》の基準点がずれているから、善の総量が少しずつ目減りしていく。
気づいたときには、善と呼べるものが何も残っていない」
「それの何が問題なんだ」
思ったままを口にすると、男は初めてわずかに眉を動かした。
「……やはり、理解できないか」
「善が減れば、悪が基準になる。新しい均衡が生まれるだけだ。合理的だろう」
「それは均衡ではない。底が抜けていく過程だ」
「底、か」
「《ルール》は平均を参照する。だが平均が悪に傾けば、次の基準はさらにその下になる。際限がない」
「だがそれは、《誰かの基準》だ」
「僕の、ということか」
「そうだ」
男は一歩、近づいた。
「君を止める」
「どうやって」
「消す」
その言葉に、また興味が湧いた。
「僕を消せば、《ルール》はどうなる」
「原点を失い、再起動する。世界はやり直せる」
「つまり——僕が消えた瞬間、《ルール》の基準もリセットされる」
「そうだ」
なるほど。
それも、面白い。
《ルール》は僕を必要としていて、僕が消えれば《ルール》も変わる。依存関係がある。
「なら、それでいい」
男は一瞬、目を細めた。
「……抵抗しないのか」
「する理由がない。それより——消えた後、《ルール》が次に選ぶ原点は何だ」
「……わからない」
「そこが気になる」
男は小さく息を吐いた。
「最後に一つだけ聞く」
「何だ」
「もしあの夜、やり直せるなら──助けるか?」
僕は少し考えた。
助けることで世界が変わらなかった可能性。
助けないことで生じた現在の結果。
《ルール》が別の原点を選んだ場合の世界との比較。
計算して、答えを出す。
「助けない。同じ選択をする」
「……なぜだ」
「今の世界の構造を知っている状態で、同じ変数を入力したとき、《ルール》がどう反応するかを確かめたい」
男は目を閉じた。
「……そうか」
次の瞬間、視界が白く塗りつぶされた。
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気づくと、僕はあの路地裏に立っていた。
同じ夜。
同じ光景。
同じ、選択の瞬間。
男の声が、どこかで響いた気がした。
──やり直しだ。
僕は立ち止まり、二人を見た。
《ルール》が、どこかで僕を観測している。
そう思うと、少しだけ──本当に少し──集中できる気がした。
今度は助けてみよう、と思った。
前回と違う選択を入力したとき、《ルール》がどう応答するかを確かめるために。
それ以外の理由は、特にない。
僕は一歩踏み出した。
善悪は、まだわからない。
だがこの実験の結果は──きっと、面白い。
4/27/2026, 6:16:20 AM