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桜少女

「行かないで、ひとりにしないで...」
 どこからだろうか。か細い子供の声が聞こえてくる。
「こっちだよ、こっち。後ろの大きな木。」
 振り返るとそこには広くひらけた原があり、その中心には一本の大きな木な聳え立っていた。どうやらさくらの木のようなのだが、今は春が終わり、夏が始まる時期。さくらの花はとうに散り、今では緑色の葉や時々覗かせる黄緑色の若芽が生い茂っていた。
 私は引き返し、声のする大きな桜のあたりを見回したが声の主らしきものは見つからない。
「戻ってきたぞ、どこにいるんだい」
 そう呼びかけると桜の木の根元からこちらに向かってくる少女が見えた、と思った矢先、少女は私から少し離れたところで急に立ち止まってしまった。
 少女は10歳前後といったところだろうか、白いワンピースを着てこちらを見つめている。
私は少女に近づいて言った。
「大丈夫かい?こんなところにずっといたら寂しいだろう。夜中は寒くなるよ。どこから来たんだい?」
 少女は答えなかった。代わりに少女は、彼女の足首まで丈のあるワンピースをたくし上げ、白く光るふくらはぎをあらわにした。そこには誰にも手をつけられていない積もった雪のように白銀に煌めく少女の肌と、そこからのびる太い綱があった。
 綱、である。それを見た私は一瞬理解ができなかった。その綱は彼女の足に括られているというわけではなく、まるでその綱が体の一部であるかのように、ふくらはぎの真ん中から、文字通り生えてきているのである。では、この綱はただ少女のふくらはぎから生えているだけなのか。
 少女はワンピースを下ろし、こちらを見て言う。
「ついてきて」
 といって歩き出す。私は言われた通りについていった。少女は中央の桜の木まで私を案内した。そこには彼女の足をつなぐ綱のもう一つの先があった。それは木の根元に埋まっていた。これでは少女は綱の許す範囲でしか動けないじゃないか。
「もしかして...この綱に繋がれていてこの桜の木のまわりから離れられないのかい?」
「そうよ、ふくらはぎからも、木の根元からも、この綱を抜こうとなんども試した。綱を真ん中で切ってやろうとそこらに落ちている石で丸一日綱を殴り続けたこともあったわ。でも見ての通り、私はここに縛られたまま。」
 彼女は答えた。
 まるでここから解放されることを諦めたかのような表情だった。
「ここにはほとんど誰も来ない。街からこのユーグ山を安全に越える道からは少し外れているのよ。けれど、時々道を外れてしまった旅人や動物を狩りにきた狩人なんかが迷い込んでやってくるのよ。そのたびに声をかけるんだけどね、なぜか気付いてくれなくて、何事もなく通り過ぎていくわ。あなたが初めてよ、私に気づいたの」
 少女は少し微笑んで言った。
 たしかに、このユーグ山の中腹にこんな広場があるなんて知らなかった。私は麓に栄えるシュルの街の薬師で、山には薬草をとりに毎日通っていたはずだが、今まで一度も通らなかったらしい。今日も彼女の声を聞くまではそこに広場や大きな桜があることすら気づかなかったような気がする。
「不思議な話があるもんだ。いつからここに繋がれたままなんだ?」
私の問いに彼女は言った。
「わからないわ。ものごころついたときにはここにいた。ここにいると時間の感覚がなくなるのだけれど、大体20回くらい四季が回った気がするわね。」
「つまり、20年か...。...ん?じゃあ君20歳は超えてるってことかい?」
「そうね、数えてないからわからないけれど。どうやら体の成長は少女のままで止まってしまっているみたいね。」
 彼女は淡々とそう言った
 見た目の割に随分大人びた話し方をすると思っていたが、人を見た目で判断するなとはこういうことなのだろうか。少し、というかあまりにもレアケースな気もするけれど。
「そういえば自己紹介が遅れたね。私はシュルの街で薬師をやっているアダーというものだ。君の名前は?」
「名前なんてないわよ。親もいないしずっとここで1人なんだから。」
 困ったように答える。
「そ、そうか。それはすまなかった。」
「別にあなたが名付けてくれてもいいわよ?アダーさん。」
「あ、ああそうか。では...セラ、はどうだろうか。」
「良い名前ね。どう言う意味なのかしら?」
「桜という意味だよ。大きな桜の木の下にいた君にはぴったりなんじゃないかと思ってね」
「いいわね、気に入ったわ。」
「そうか、それならよかったよ」
 そうこうしてるうちに、ユーグの山肌は西日に照らされ始めていた。いつまでもここにいるわけには行かない。明日までに必要な薬をつくらなければ。
「すまないが、私は街へ戻らなくては」
「そんな、行かないでよ!せっかく1人じゃなくなったと思ったのに...」
今までの大人びた雰囲気とは一転して見た目相応の様子を見てとれた。
「ここであったのも何かの縁だ。また明日来るよ。」
 そういって私は山を下る。セラはギリギリまで私を行かせまいと粘っていたが綱に縛られていることもあって最終的には木の根元に戻っていった。
 街に戻った私は、明日やってくる患者のための薬を調合し終わり、寝床についた。さて、どうしたものか。セラをあのまま放っておくわけにもいかないし、かといって何かできそうなわけでもない。というかなぜ繋がれているのかもわからない。これからは少し生活にハリが出るかもしれないな。そう思ったアダーは彼女の繋がれた綱の感触を思い出しながら眠りについた。

(続く)

10/24/2023, 1:56:45 PM