お題【sweet memories】
『蜜糖』
スプーンの背で、じっとりと濡れた砂糖の塊を潰す。
ガリ、と嫌な音がして、それが彼女の鼓膜を不意に引っ掻いた。
午後三時の純喫茶は、まるで巨大な琥珀の底のようだ。誰もが微温湯(ぬるまゆ)のような会話に浸かり、動きを止めている。向かいに座る修平は、手持ち無沙汰そうにスマートフォンの画面を指でなぞっていた。
彼の爪の形はいつも綺麗で、それがかえって彼女を苛立たせる。
修平の指先は、画面に表示されたニュースの『正しい判決』を追っているようだった。彼はいつだって、誰も傷つけない正論だけを味方にする。
なぜ、この男の皮膚はこれほどまでに平穏なのだろう。
「ねえ。」
「ん?」
「カフカの『変身』って、あるじゃない。」
「主人公が虫になるやつ?たしか、んーと、グレゴール、…ザルザ、だっけ。」
「ザムザよ。でね、あれね、みんな彼が虫になったことを悲劇だと思っているけれど、本当は違うんだよ。」
修平は画面から目を離し、薄い唇を少しだけ綻ばせた。また始まった、という顔だ。その顔が、彼女の胸の奥にある澱を静かにかき混ぜる。
「じゃあ、なあに。」
「あれはね、介護疲れの話。……ある日突然、みんなの期待に怯えるのをやめて、ただの虫になった話。それだけだよ。」
言葉が、自分の口から滑り落ちていく。
重い。
軽い。
彼女の思考は、いつもこうして極端から極端へと跳ねる。
本当は、カフカのことなんてどうでもよかった。ただ、自分の輪郭がこの生ぬるい空間に溶けて消えてしまいそうな恐怖を、何かの記号で繋ぎ止めたかっただけなのだ。
仕事はそれなりに順調。修平との関係も、波風一つ立たない。一年後、否、半年後には結婚するのだろうと、周囲の誰もが疑っていないし、自分でもそうなるのだろうと思っている。
けれど、何かが決定的に歪んでいる。
過去の傷跡や、あの頃の泥臭い執着。それらがすべて美しい思い出という名の、無菌室の標本にされていく感覚。
「沙代(さよ)、冷めるよ。コーヒー。」
修平の声は、いつだって正しい音程を保っている。
その正しさに触れるたび、私の体温だけが吸い取られていくようだった。彼は優しい。浮気もしないし、私の突飛な話も否定しない。けれど、彼は私の深淵を覗こうとは決してしない。ただ、安全な崖の上から「気をつけてね」と声をかけているだけ。
私たちは、お互いをすり減らさないために一緒にいるのだろうか。
窓の外を、一匹の黄色い蝶が横切った。
都会のアスファルトの上で、あんな脆弱な羽を羽ばたかせて、一体どこへ行くつもりなのだろう。死に場所を探しているようにも見えるし、ただ単に風の奴隷になっているようにも見える。
「修平はさ。」
「何?」
「私との思い出の中で、一番綺麗だと思う瞬間ってどこ?」
修平は少しだけ眉をひそめ、天井を見上げた。真面目に考えている時の彼の癖。
やめて。
そんな風に、過去を綺麗にラッピングしようとしないで。
「……三年前の、あの雨の日の江の島かなぁ。ずぶ濡れになってさ、アジサイを見て。あの時の沙代、すごく笑ってた。」
修平の無邪気な瞳と視線がぶつかり、私は小さく、それと分からないように目を逸らした。
彼女は、胸の奥で小さなガラスがひび割れる音を聞いた。
あの雨の日、冷えたスニーカーの中で足指がふやけていく感覚と、せり上がってくる胃液の酸っぱさだけを覚えている。
あのとき、私のスマートフォンは、ポケットの中で何度も静かに震えていた。私はそれを、絶対に修平に見られないように握りつぶしていた。
彼の世界にある美しい思い出は、彼女にとっては、鋭利なガラスの破片を蜂蜜で煮詰めたような、そんな代物だった。
「……そっか。あれね。」
彼女は、あえて短く応じた。これ以上、言葉を重ねれば、この綺麗な琥珀の空間をすべて破壊してしまいそうだったから。
修平がふいに顔を上げ、「髪、切った?」と聞いた。「うん、少しね。」と私は微笑む。彼は満足そうに頷き、また画面に目を戻した。私がこの髪型にしてから、もう三ヶ月が経っている。
彼女は冷めかけたコーヒーを一気に飲み干した。口の中に広がる、容赦のない苦味。しかしその奥に、先ほど潰した砂糖の、しつこいほどの甘みが微かに残っている。
席を立つ修平の後ろ姿を見ながら、彼女はバッグのストラップを強く握りしめた。
外は、目が眩むほどの青空だった。
「あ、そうだ。」
歩き出した修平が、眩しそうに目を細めて振り返る。
「次の休みさ、また江の島行かない? 晴れたらきっと、あの時より綺麗だよ。」
うん、いいね、と彼女はいつもの笑顔を貼り付けた。
5/17/2026, 10:24:42 PM