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『街に生きる』

 田舎から出てきてから、もう十年になる。都市とまでは呼べないが、この辺では一番に栄えるこの街で、相応の時間を過ごした。ここにはまっすぐな畦道も、広大な稲穂の海もない。カエルやコオロギの鳴き声も聞かなくなって久しい。十年前は厭わしくて仕方なかったあの田舎の雰囲気が、今では随分恋しかった。
 高校を卒業する頃、とにかく親元から離れたかった俺はこの町で就職した。田舎で一生を終えることは嫌だったが、東京に出るほどの勇気はない。地方都市ですらないこの街は、中途半端な俺にはお似合いと言えばそうかも知れなかった。親の反対を押し切って就職した会社は、白か黒かと言えばそれはもうどっぷり墨に浸かったかのような…有体に言えばブラック企業だった。平日は残業、土曜は休日出勤が常態化していて、日曜の休みも家で死んだように眠るだけで終わってしまう。あるいは親の言う通り、素直に農家を継いだ方が随分と幸せだったのかも知れない。適当な啖呵を切って家を出たものだから、今さら田舎へ戻るようなこともできず、毎日を惰性で暮らしている。
 朝起きて、朝食もそこそこに家を出る。満員電車に揺られて着いた職場で、何の意味があるのかもわからない朝礼を終えて、一向に効率化の進まないシステムで仕事に忙殺される。昼休みはゼリー飲料を流し込み、栄養補助食品で空腹を凌ぐ。午後の記憶はほとんどない。授業中の教室、窓の外の空に流れる雲をぼんやり見ていたあのゆったりとした時間の感覚は、もう数年と味わっていない。あの頃の空と、仕事の合間に一服しながら眺める空は、今の方が数倍くすんで見える。体に悪い煙で肺を満たしながら、そうでもなきゃやってられない毎日を恨んだ。だからといって上司に辞表を提出する勇気もなく、会社と自宅の往復のような日々を繰り返している。
 憧れていた都会の喧騒は、自分には耐えられそうにもない。所詮は地方の一都市で仕事に忙殺されて生きる人生と、長閑な田舎の片隅で汗をかいて生きる人生と、どちらが自分にとって幸福なのか。つらつらと考えてはみても、結局結論は出せずにいる。結論を出す勇気がないと言ってもいい。今まで耐えてきたこの時間が無駄だったとは思いたくない、いわゆるサンクコストのせいだろうか。こんなことを考えている時点で、もしかすると結論は明白なのかも知れない。
 今日もまた、昨日と同じ一日だ。明日もきっと何も変わらない。あるいは変わらないことが幸せと言えるのかもしれないが、それが自分に当てはまるかと言えば明確な肯定はできなかった。
 ため息混じりに最後の一息を吐き出して、灰皿に煙草を押し付けた。そろそろ仕事に戻らなければ、残業時間が増えるだけだ。俺はガラスに反射する自分の疲れきった顔から目を逸らして、仕事の積まれたデスクへと歩き出した。

1/28/2023, 7:28:30 PM