『兄は一年後、柴犬になるらしい』
「一年後には、俺は柴犬になってる予定だから」
兄は味噌汁をすすりながら言った。
「えっ」
思わず箸が止まった。
兄は半年前に会社を辞めてから、ずっと家にいる。
最初のうちは転職サイトを見ていたはずなのに、最近では近所の犬ばかりを見ていた。
「田中さんちの小太郎、最近ちょっと丸くなったな」
とか言う。
「なんで柴犬なの」
「距離感がいいだろ」
兄は真顔だった。
「ベタベタしない。でも嫌われてもない。理想的だろ」
分かるような、分からないような。
その日から兄は、本格的に柴犬になろうとし始めた。
赤い首輪を買い、散歩を始め、電柱の匂いを嗅いだ。
「何してるの」
「情報収集」
完全に不審者だった。
最初は母も怒った。
「やめなさい!恥ずかしいでしょ!」
でも兄は平然としている。
「柴犬はちゃんと匂い確認するし」
「あなたは人間なの!」
すると兄は少し考えて、
「まだね」
と真顔で返した。
しかし人間、慣れるもんでさ。
一週間後には、母も、
「ポチ、ご飯よ」
「ワン」
という会話を普通にし始めた。
適応が早すぎる。
つい最近まで、キレていた人とは思えない。
兄は柴犬カフェにも通い始めた。
帰宅後はいつも、
「犬社会、厳しい……」
と呟いている。
今日もまた、兄は近所の柴犬を見に行っていた。
帰宅した兄は、なぜか少し傷ついた顔をしていた。
「どうしたの」
「……柴犬、思っていた以上に愛想ない」
「そっか」
「三十分見つめていたのに、完全に無視された」
兄は遠い目をした。
「犬社会、やっぱり厳しい…」
その時、窓の外で柴犬が「ワン」と鳴いた。
兄はしばらく黙り込んでいたが、やがて顔を上げた。
その表情は、どこか切ない。
「でもチワワならいける気がする」
全然懲りてなかった。
完
2026.5.14
5/14/2026, 1:48:56 AM