結城斗永

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 暗転したステージの上。シンと静まり返る観客席。
 ――緊張は最高潮を迎えていた。
 心臓の高鳴りを抑えるように呼吸を整えながら、出だしのポーズを構える。
 カッ、カッ、カッ、カッ――。
 ドラムスティックを打ち付ける音が鳴る。スポットライトが点灯する合図。
 
 バンッ――とあたりが明るくなり、同時に電子音で作られた軽快なイントロがステージに響き始める。
 それと同時に、マイクを握りしめ、会場全体に響くように大きな声を張り上げる。
「今日も叶咲(かなさき)ゆいは、みんなに元気を届けにきたよ!」
 わたしのステージは、いつもこの掛け声から始まる。
 会場の一番後ろにいても見えるように、少し背伸びをしながら左手を大きく掲げる。
「みんな、準備はできてるー?」
 客席からは無音の歓声が響く。

 ――その日、外はバケツをひっくり返したようなどしゃぶりだった。
 歓声の代わりに聞こえてくるのは、屋根を打ち付ける大粒の雨音のみ。
 たとえ観客が一人もいなくても、わたしにとっては同じステージ。
 ステージのライトが色とりどりに輝きながら、ステージに立つ私を照らす。
 今、目の前にいないだけで、きっとどこかで自分のことを思ってくれているファンがいる。
 わたしにとってはそれだけが原動力――。
 
 わたしがアイドルを目指したきっかけは、幼いころに見たドキュメンタリー。
 キラキラと光るステージで、かわいい衣装を着て、たくさんの観客の熱気に包まれる彼女たちの姿。
 自分を応援してくれるファンのために歌い、踊り、時に笑い、時に泣き――。
 彼女たちがファンのためを思い、必死で練習する姿や、ステージに臨む姿勢が、ぐっと胸に突き刺さった。
 わたしが進むべき道は、ここしかない!
 その番組を見た瞬間、わたしはそう確信した。

 叶咲ゆいのダンスは、四肢を大きく伸ばす激しい動きが特徴的だ。
 指先まで意識を巡らせて、人差し指の角度にまで神経を研ぎ澄ませる。
 叶咲ゆいの歌声は、少し鼻にかかるようなビブラートが特徴的だ。
 何度も自分の声を録音して、聞き直しては理想の振動を追求した。

 すべては、応援してくれるファンのため。
 ひとりきりのステージかもしれない。
 でも、わたしにできるのは、ファンのみんなの大きな愛を想像しながら、精一杯にやりきること。

 サビ前に入り、曲調が落ち着く。激しかったダンスもスッと場面が切り替わるように静かになる。
 ここで息を荒げてはダメ。ここで何事もなかったように平静を保つのが叶咲ゆい。
 心臓は大きく高鳴っているけど、それを悟られてはダメ。叶咲ゆいはプロなんだから。

 いよいよサビが近づいてくる。叶咲ゆいにとって一番の見せ場がやってくる。
 早くなるテンポ、大きくなる音楽、目まぐるしく動くスポットライト――。
「みんな! さぁ、行くよ!」

 
 ――ガチャリ。
 ドアノブをひねる音で、突如として『ひとりっきり』の楽しい時間が終わりを告げた。
 ――もぉ、せっかくいいところだったのに!
 私は慌てて口の前で握った拳を下ろし、乱れた髪を手櫛でササッと整える。
 無音のリビングには、屋根を打ち付ける雨の音だけが響く。
「はぁ、突然降るんだもん。びしょぬれになっちゃった……」
 玄関から、うなだれるようなママの声が聞こえる。
「お、おかえり――。早かったね」
 そう言いながら、心臓がまだバクバクと音を立てているのを悟られないように必死だった。
「着替えたら、すぐご飯の支度するからね」
 もうそんな時間か……と時計を見ると、まもなく二十時になろうとしていた。
 ――いっけない、推しを見る時間だ。
 私は急いでリビングへ戻り、テレビの前に正座する。
 画面の向こうに現れた『叶咲ゆい』は、今日もいつもと変わらずキラキラ輝いていた。

※この物語はフィクションです。特定の個人団体とは一切関係がありません。

#ひとりきり

9/11/2025, 12:53:55 PM