薄墨

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寒い朝のことでした。
僕は、君と君の家族にお出しするための朝ごはんを、勝手につまみ食いしたお仕置きで、中庭に立たされていました。

その日、僕は、生来の奇形と要領と愛想の無さで夕飯にありつけずに空っぽだった、僕の胃袋に唆されて、料理番の脇から朝飯を摘んだのでした。
それを見咎められ、料理長に襟首を掴んで引き出された中庭で、僕は立ちすくんでいました。
薄い寝巻きに吹き付ける朝の空気と、さっき打たれた打ち身がジンジンと痛む、とても寒い日でした。

僕と同じ歳の君は、そんな中庭に鼻歌を歌いながら現れました。
暖かそうなガウンを羽織って、君は花に水をやっていました。

ホースを通じて排出される水は、シャワーヘッドのような先端の器具によって、無数の柔らかな水滴となって、黄金色の日の光がさす冬の朝の空気の中に、次々と投げ出されていきました。
その水は、静かに、今開き始めた薄緑の葉やひっそりと開いた花弁に、優しく降り注いでいました。

朝の黄金の日の光が差していました。
君のブロンドが暖かく照りました。
ホースの先から降り注ぐ水滴は、軽やかに煌めきながら、植物の上を自由落下していました。

絵画のような中庭の景色でした。
君自身、そんな朝の空気を満足そうに堪能していました。君が僕を見つけたのはそんな時でした。

だから君はその時、確かに、僕の存在に水を指されたのです。

君はちょっと顔をしかめ、それから、無邪気で美しい、上流家の子どもの、自然な心のままに、僕に水をかけることを決めました。
ホースの首をこちらに巡らせようと、君は、ホースをおもむろに動かしました。
水は、朝日に煌めきながら、その着地点を、緑の茂る植木から、僕の横の土に変えました。

ホースの煌めく水が、柔らかく土を叩いて泥に変えました。
その時でした。

日の光を反射した無数の水滴のアーチの下に、長さが10センチにも満たない、小さな虹が現れたのは。

僕と君は、普段の身分の違いも、見てくれの違いも、育ちの違いも何もかも忘れて、ただ、二人の子どもらしく顔を見合わせ、それから同時に「わあっ」っと感動の声を上げました。
それから、改めて二人一緒に、しみじみと見つめた。
あの虹を。虹の欠片を。

あの時、君と見た虹は、本当に美しく、宝物のようでした。
虹とは美しいものだ、という大人の常套句を初めて、体験と共にはっきりと感じたのは、あの瞬間でした。少なくとも僕にとっては。

あの時、君と見た虹は、本当の虹の、欠片にも満たない、小さな虹でした。
あの頃の幼かった君と私の世界は、あの屋敷の敷地内のみで、だからこそ、あんな破片でも、僕たちには、宝物のような大輪の虹のように感じたのでしょう。
実際、大人が“美しい”という虹ではなかったでしょう。あの虹は。

しかし、僕は、大人になった今も、あれより美しい虹はないと思うのです。
あの日、君と見た虹が、人生で最高のものだと思うのです。

不景気の煽りを受け、あの屋敷を出ることになってから、僕の世界はずいぶん広がりました。
ずいぶん、いろんな虹を見ました。

無理矢理に連れて行かれた先の戦場で、沈みゆく仲間を尻目に、底なし沼のようになった地面に沈まないよう、必死にもがいて仰いだあの雨上がりの空には、大輪虹が二重に架かっていました。

街角で痩せた野犬と煤まみれの浮浪児と体を寄せ合って明かした、雨夜の夜明けに架かった虹は、くっきりと鮮やかでした。

屑屋の目前で、雨に降られて、拾い集めた布が全て湿って途方に暮れている、くたびれた屑拾いを見たあの夕空には、とびきり大きな虹が堂々と、赤空を席巻していました。

しかし、僕にはどうしても、君と見たあの虹の方が、美しい、本物の虹だったように思えてならないのです。

今、僕は病院の一室にいます。
もはや使いものにならなくなったこの身体では、厳しく広いあの世界を、現実を、自力で生き延びることが出来ないので。

この病室のベッドの上でも、僕は虹を見ました。
爽やかな雨上がりを、美しいとされる雨上がりを見ました。
医者の先生や、身の回りの世話をしてくれる看護師さんや、同じ部屋の戦友や、時折訪ねてくる友軍の兵隊や、色んな人と見ました。

しかし、どの虹も、君と見たあの虹には、敵わないように思えるのです。
君と見た虹の、あの一瞬の美しさには、敵わないように思うのです。

身分も生い立ちもこれからの人生も全て忘れて、ただ対等に、同じように、ただ美しさに目を煌めかせた、あの一瞬には、敵わないように思えるのです。

君は、貴女様はどうでしょうか。
きっと、貴女様にも色々なことがあったのでしょう。
そんな貴女様にお聞きしたいのです。
貴女様は、あの時より美しい虹を見たことがおありなのでしょうか。

先の戦争で負傷した兵は、お手紙を書かせていただける、そして、貴女様から、慰労のお返事をいただける、というお心遣い、本当に嬉しく思います。

しかし、僕が体験した戦場の恐ろしさも、世界の無情さも、僕の人生の苦しさも、訴えるには及びません。
ただ、僕は、知りたいのです。
貴女様が、あの一瞬よりも美しい虹を見たことがあるのか。
見たとしたなら、その美しい虹というのはどんなものであったのか。
僕は知りたいのです。

お願い致します。
どうか、誠実なお返事を頂けますように。
最後になりましたが、貴女様の治世が、末長く続きますように。
もう貴女様や御国を支えることが出来ない身ですので、毎日、ただお祈り申し上げております。

2/22/2025, 3:25:42 PM