茎わかめ

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8/3書きました。

波にさらわれた手紙

 大きな音を立てて、波が白く泡立ち、崖下に押し寄せる。その崖の淵に人が立っていたら、あわや飛び降りかと誰もが思うだろう。少なくとも自分はそう思うし、更に言うなら、親しい人が立っていたら慌ててそこへ向かうだろう。
 今まさにその状況だった。それまではなんてことのない、普通の日だったのに。

 一日のどこにも予定がなく、天気も良く、日差しもそこまで強くない。そんな日はいつも海辺に行く。それがお決まりだった。
 海は、先輩と似ている。
 正確な日付は忘れてしまったが、あの後から、自分は海が好きになった。それまで海が特別好きだったわけではない。先輩に命を救われて、慕うようになって。その後だ。
 休みの日は互いにプライベートである。偶然会えば会話はするが、ただそれだけ。先輩は、良くも悪くも他人と一線を引く。そこに踏み込む気はない。だが、それでも会えないのが寂しくて、だから先輩を思い起こす海に行くようになった。
 今日も波と砂の境目を歩き、ゴミが落ちていたら拾い、綺麗なものがあれば拾い、飽きたら海を眺め、それにも飽きたら海沿いの店に行き、といつも通りの行動をしていた。
 店で食べ歩きできる串焼きをいくつか買い、食べながら海へ戻る。ここは周りが海に囲まれている小さな島であるため、ぐるっと取り囲むように砂浜がある。たまに崖や山や埋め立てられた建物で途切れるが、それでも長く砂浜が続く。
 場所によって違う景色を楽しめるのがこの島の良いところである。どこまで行こうかなと歩き続け、ついには崖のほうまで来てしまった。崖の向こう側へ行く道もあるが、上り坂であるため気が進まない。今日のところは一旦戻ろうと踵を返そうとした。
 崖の上に誰かいる。
 思わず二度見してしまう。だって、先ほど行くのを辞めた道は、崖の淵から離れている。柵のない場所に佇む人は、今にも落っこちるのではないかと不安を煽る。助けに行くべきか迷う。向かったら驚いて落ちてしまうことも考えられるからだ。誰かが目の前で死ぬのは、怖い。
 けれどそれは、ほんの一瞬の迷いだった。一際大きく波がぶつかる音がして、その人の姿が、目に。
 持っていたものをその場に落とし、駆け出す。拾ったゴミや先ほど買った串焼きを置いてきてしまったが、残ったそれを考えるような余裕はなかった。
 自分が見間違えるはずはない。あの、深い海のような、煌めく水面のような、特徴的な色の髪は。
「先ッ輩!」
「えっなになになになに⁉︎」
 息を切らしながらもその腕を引っ張る。淵のギリギリに立っていたその人は、体勢を崩して此方へ傾いた。もう大丈夫、淵でなければ落ちないはず。
 一緒に倒れ込み、自分は安堵から一気に疲労が押し寄せ、そのままの状態で呼吸を整える。その人──先輩はすぐさま跳ね起き、丸く見開いた目を此方に向けた。
「なんでここにいんの⁉︎」
「ぃや、ぁって、こぅひゅ」
「あーもう、息整えてからでいいから!」

 吸い込み、咳き込み、呼吸を合わせて、吸って、吐いて、も一度吸って。ようやく整った呼吸を見て、再び先輩は聞き直した。
「で、なんでここにいるの」
「それは俺の台詞ですって」
 崖に人が居たら、やばいって駆けつけません? そう告げた自分に、先輩はバツが悪そうに合わせていた目線を逸らした。立ち上がりながら続ける。
「なんでここに居たんですか」
「いや、その、」
 やけに言い淀む様子を見て、嫌な予感がした。さっきまではいつも通りだったから油断した。まさか、本当に。
「……手紙、流してた」
「……は?」
 手紙、流してた。先輩が繰り返し言うから、自分も思わずおうむ返ししてしまう。
「それだけ? ほんとうに?」
「うん」
 急に力が抜ける。勘違いした自分への呆れと、飛び込むつもりはなかったことへの安堵。ごっちゃになった感情は、素直に身体に表れる。せっかく立ち上がったというのに、膝から力が抜け、その場にへたり込む。
「よかったぁ……」
 そして、無事を確認して安堵した以上、次に出るのは不満である。
「てかなんで手紙流すんですかしかもこんな崖から落ちるのかと思いましたよもちろん先輩の身体能力がずば抜けてるのは知っていますが本当に落ちたりしたらどうするんですか次は知りませんからね辞めてくださいよねというかこの間だって………」
 先輩は相槌と頷きと申し訳なさそうな目で、しばらく愚痴を聞いてくれた。が、その愚痴は急に止められる。
「……うん、ごめんね」
 そう言われてしまうと、もう自分に言えることはない。そんな静かな目をして言われてしまうと、途端に声が出なくなる。
「わ、かればいいんですよ」

 次の日。自分は職場にいた。隣が先輩のデスクである。先輩のデスクには鞄がそのまま置かれていて、持ち主は来てすぐどこかに行ってしまったらしかった。すぐ戻ってくるだろうと、待ちながら確認が必要なものをリストアップしていく。
 ふと、鞄から白い物がはみ出しているのが見えた。しまい直そうと鞄を開ける。手紙らしかった。
 先輩が言っていた手紙はこれだろうか。宛名も送り主の名も書かれていない封筒は、職場で使うようには見えない。しかし、海に流すためのボトルも見当たらない。途中で買うつもりだったのだろうかと疑問に思う。
 封はされていない。好奇心が湧き上がる。一般的には良くないことなのだろうけど。海に流したら誰が拾うかわからないのだから、自分が開けたっていいはずだ。そうして、そっと中の紙を取り出す。

 そこからはあまり覚えていない。いつものように先輩が挨拶して、仕事をして、帰る。いつものことであるし、仕事した内容も覚えている。自分もいつも通りだったはずだ。
 だが、頭は手紙の内容でいっぱいだった。
 謝罪が書き連ねられていた。個人名はなかったが、自分の行動と、謝罪が。紙が黒く見えるほど細かく書かれていた。よく見ると、何度か書き直したような跡もあった。
 誰に、なんで、先輩が謝って、
 頭が疑問で埋め尽くされる。それでも先輩はいつも通りだった。先輩は、いつも通り、で? ほんとうに?
 またしばらくしてから、先輩の鞄をもう一度見た。手紙は無かった。もう波にさらわれてしまったのだろう。
 先輩が何を考えているのか、自分には未だわからない。それでもずっと、ついていこうと思った。自分の憧れた先輩を、今度は自分が助けてあげられるように。救われた命の分以上に、返してあげるために。

8/3/2025, 6:54:16 AM