何の変哲もない思い出話は
小学校低学年の頃、遠足で梨狩りに行ったことがあった。梨の木の果樹園に入り、木に実っている梨を自由に取るというものだ。1人3個までと先生に言われ、前の子に続いて中に入ると、視界の先まで梨の木が広がっていた。その木に梨の袋が点々とぶら下がっている。私は広がる枝を見上げ、気付いた。梨の位置が高すぎる。もしかして、梨まで手が届かないのでは?
「もし届かなかったら先生を呼んでね」という先生の言葉が遠くで聞こえた。
一緒に梨取ろうね~と言っていた友達とは早々にはぐれた。私がどの梨と取ろうかと上をガン見しながら歩いていたため、友達がいつの間にかいなくなっていることに気付かなかった。上を見ながらしばらく歩いた後、どれにする?と振り返ったら誰もいなかったのだ。まあ後で合流すればいいかと、梨に視線を戻す。特に梨が好きなわけではない。むしろ若干苦手だったが、どうせ取るなら大きいものを取って家族にあげれば喜ぶし、褒めてくれるだろうという小学生の単純な動機だった。
ふと、1つの梨の袋が目に入る。他の梨よりも大きい。なんかずっしりしている。気がする。たぶんいいやつだ!
そう思った私は、意気揚々と手を上げて梨を取ろうとした。が、届かない。つま先立ちをしてみた。しかし届かない。ジャンプしてみた。ギリッギリ指先が紙についた。が、掴むまでには至らない。もう一度ジャンプしてみた。さっきよりも紙を触る面積が増えたが、ギリギリ指先しかつかないのは変わらない。
誰かに協力してもらって取ろうとあたりを見渡すが、何故か1人も見当たらなかった。さっき友達を置いてきたからだ。少し後悔した。どうしようと1人で悩む。私が誰かを探しに行ったら、たぶんこの梨の元には戻ってこれなくなるだろう。見渡す限り梨の木、似たようなたくさんの木の中から再び特定するなんて無理だ。そうだ、助走をつければ高く飛んで、梨を掴めるかもしれない。少し離れて助走をつけてジャンプしてみた。ただ梨に指でハイタッチをして、地面に着地しただけだった。手のひらがつかないことには梨を掴めない。
遠くから「とれた!」という言葉が聞こえた。え、こんなに高いのにどうやってと耳を澄ませると、どうやら果樹園の外は果樹園の中より地面が高く崖の行き止まりになっており、ゆるやかに地面が盛り上がっているところがあるようだ。崖は登れないが、盛り上がっている地面は上ることができるので、梨に近づけるのだ。
私もそっちに取りに行こうか。しかしここまで頑張ったし、私が見つけた梨のほうが絶対に美味しいという謎の自身があった。梨が苦手の癖に。ということで、ジャンプを再開したのだった。
最終的に、何度もジャンプをしている私を見た先生が、梨を取ってくれた。ずっと目指していた梨は手に入れたが、なんだかやるせ無い気持ちになった。自分で取りたかったな。梨狩りから時間が経ってもまだ1つしか取れていなかった私を憐れんだ先生が、残り2つも取ってくれて無事に家に持って帰った。何となく取れた梨については何も言わずに母に渡したが、大きい梨が取れたねと褒めてくれたような記憶がある。
母に向いてもらった梨は何故かとても美味しく感じ、苦手だったのが嘘かのようにぱくぱくと食べていた。
私はあれ以来梨狩りに行っていない。もう私は大人になった。あの頃手が届かなかった梨に簡単に手が届くだろう。それに、あの頃と違って「諦める」を手段として知ってしまった。だからこそ梨を見るたびに、意地になって梨を取ろうと頑張ったあの出来事を思い出すのかもしれない。
「梨」
また梨狩り行きたいな〜 っていう話です
10/15/2025, 8:43:26 AM